美術館において、観賞者はより能動的な役割が求められる。時間軸と地理的軸を組み合わせた文化的背景の上に、様々なテーマを持って物語の軌道を描くのは、ほかならぬ観賞者の役目だ。時代が示す大筋はあまりにも漠然としており、美術史を学んだものでなければ、すぐに見失ってしまう。「ロココ美術」、「マニエリスム美術」なんて括りに、いったいどれだけの拘束力があるだろう。
大事なのは、自分で定める制約だ。「テーマ」と言い換えれはより正確になる。自由に歩き回るにしても、道標は必要だ。地図は自分で作って、自分で迷え。それが巨大美術館の持つ寛容さだ。
たとえば「裸婦像」をテーマにして回ってみよう。およそこれほど古今東西にわたって好んで取り上げられたテーマも少ない。時代ごと、土地ごとに異なるエロティシズムを感じることは、裸婦像が共通して有する「豊饒さ」にしっかりと繋がっている。
レンブラント。『夜警』の印象が強い。 |
もちろん、一人の画家に集中してみるのも面白い。それができるだけの物量がルーヴルにはある。
展示作品数 35000、収蔵作品数 445000、一年間の入場者数 8346421 (2010年) …。どの数字も圧倒的だ。これだけの物量が、時間、空間的な広がりを可能にする。様々な軌跡を描ける時空間に渡る距離。あえて言おう、それこそが巨大美術館の持つ最高の美徳なのだ。
さて、巨大美術館を長編小説に例えるなら、そこここの美術館で実施される企画展は、さながら短編小説だろう。
ここではなにより技巧が優先される。それは読者 / 鑑賞者の側に求められるものではなく、主催者の仕事だ。企画展は決して長編小説のダイジェスト版であってはならない。短編小説にはそれ特有の面白みがある。それを活かすために大事なのは、主催者が如何に上手に鑑賞者の軌道を定めるかだ。
その点、先日行った「大エルミタージュ美術館展」は失敗だった。所蔵作品中、時期・場所を特定せず満遍なく選び出したことで、どこに焦点を合わせていいかわからない企画展となっていた。確かに、作品を見に行く、というよりは美術館を見に行くようなもので、まるで顔見せ興行だった。まあ、それはそれでいいのかもしれない。
巨大美術館が元来有する美点からはあえて目を背けて、極東の島国の地方美術館の所蔵品と、舶来品の二流絵画との微細な差異を楽しむ、そんな頽廃的な楽しみ方も、ありだ。
Au revoir et à bientôt !
フェルメール。説明不要の名作だが、意外と地味に置かれている |
...La prochaine destination ☛ Japon
0 件のコメント:
コメントを投稿