2012年12月29日土曜日

20代の終わりと松井秀喜引退

今や引退して号外が出るプロ野球選手なんて、イチローと彼くらいだろう。

松井秀喜の名は、読売巨人軍の名前とともに、10代の頃から知っていたし、彼の存在がプロ野球そのものの代名詞でもあった時代が、確かにあった。

その点イチローは、オリックスブルーウェーブスという、パ・リーグの一不人気球団に在籍していたこともあって、そこまでの存在足り得なかった。これは選手としての格云々の話ではなく、私のような地方在住者がテレビで野球を見ようと思えば、巨人戦のみだった、という圧倒的な事実による。

さて、思い出はいつも個人的なものだ。それはしばしば一緒に体験した者同士のあいだでさえ、食い違いが生じる。

勝手なもので、私が松井秀喜という一プロ野球選手を思い出すとき、頭に浮かぶのは彼のプレーではなく、それを見ていた自分自身のことだ。

2003年当時、金沢に住んでいた私は、大学にも行かず日々無為に過ごしていた。そんな私も夕方5時から始まるテレビ金沢の番組内の一コーナー、「今日のマツイ」は欠かさず見ていた。きっとそれは外界と閉じこもった自分の部屋を繋ぐ、小さな窓だったのかもしれない。

特別野球が好きではなかった少年が、親の影響で少年野球団に入り、父や弟とキャッチボールをする。おそらく昭和から平成の初期まで、日本中で見られたありふれた光景の一部分を形成していた少年が、大きくなって再び野球に魅せられる。海の向こうのメジャーリーグに挑戦した、一人の礼儀正しい石川県人によって。彼はその出身地に移り住んだ天の邪鬼にとっても、素直に応援したくなる存在だった。

あれから10年が経ち、ヒデキ・マツイに勇気をもらった男は、当時目指していた夢を脇において、一応は真っ当な仕事につき、結婚もした。新しい目標もできたし、それに向かって日々頑張っている。

ヒデキ・マツイはMLBの世界から身を引いた。ちょうど私の30歳の誕生日の翌日に。

松井秀喜の引退。それはプロ野球にとって間違いなく、一つの時代の終わりを意味する。私にとってはそれが、20代の終わりとぴたりと重なることによって、特別な印になった。

そうだ、それは松井が日本プロ野球に身を置いた最後のシーズン、2002年シーズンの最後に五十嵐亮太から打った、第50号ホームランの軌道に似ている。その弾道は、引っ張りの多かったこれまでの松井のホームランとは一線を画す、左中間スタンド中段にぶち込まれた弾丸ライナーだった。

そうだ、当時テレビでそのホームランを目の当たりにした私は、新しく生まれ変わった松井秀喜、いや、ヒデキ・マツイを確かに認めたのだった。

そうだ、それは新しい門出、人生の節目を自ら祝う祝砲の一発だ…。

Au revoir et à bientôt !
ありがとう、松井秀喜。
 

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