2011年8月28日日曜日

逃亡者に勲章を――日本人の美的排斥考

こんばんは。ギリギリですが本日二度目の更新です。

独裁政権にあって忘れてはならないことは、政権下において独裁者に協力的な市民の存在があったことです。

それも、ごく少数というわけではなく、むしろ国民の少なからぬ数が、というのが適当でしょう。そうでなければ、如何に独裁という形であろうとも、政権が成り立たないでしょう。

別の時代の別の時代にある私たち(とも言い切れない気もしますが)からすれば、「どうしてそんなことが?」と考えるのも無理からぬことですが、実際事実がそうである以上、どうしようもありません。

ここでは、その心理を追求することはしませんが、代わりに表題の件について考えたいと思います。

「美的排斥」という考え方については以前のログで紹介しています(7/21 『美的排斥――言葉について(4)』)ので参照していただければと思います。
あの文章を書いて、自分でも日本人にとっての「美的排斥」とは何か、ということを考えていました。
で、個人的な見解としましては、「我慢しない(できない)」という評価ではないかと考えます。

日本人にとって、「忍耐」という言葉ほどその国民性を表している語はないのでは、と思ったりします。

もちろん私も、忍耐や我慢の肯定的側面を否定するつもりはなく、どんな仕事や学業、果ては趣味の領域でも、ある程度のところまで到達するためには成果が出なくとも我慢して続ける必要がある、と思っています(この場合の我慢は、「努力」とほぼ同義でしょう)。
しかしその一方で、我慢すること自体が美徳となりすぎているところがあるとも感じます。

自分の属している社会、会社、あるいは国が明らかに誤った方向に進んでいる(もちろん善悪の判断などそう簡単にできるものではありませんが)、そういった状況にあっても、「抵抗」よりも「忍従」することの大切さが語られる。「忍従」、これほど適切な言葉は他に見当たりません。

普通の感覚なら耐えがたい環境に耐えるために、考えることを止め、判断を停止し、命令に服従する。このような「我慢」ができない人間は異常なのでしょうか。

以前「脱走兵に勲章を」といった内容を書いた文章を読んだ記憶がありますが(曖昧ですいません)、この感覚、一般市民の勇気しか持たない、けれども思考停止に陥らなかった人間の行動を讃えるこのような考え方をこそ、新しく「勇敢さ」を測る指標として、記憶したいと思います。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
死者に対する鎮魂の思いは、形は異なれど万国共通ではないでしょうか

2 件のコメント:

  1. 脱走兵だけでなく、独裁政権下で草の根的に独裁政権の危うさを訴え続け、捕まって拷問、死刑を受けた刑事犯ともよばれる人たちにも、勲章をあげてほしいです。彼らがいなければ、独裁政治を鵜呑みにする人ばかりで、民主主義とは遠い未来を歩んでいたかもしれないからです。

    返信削除
  2. コメントありがとうです。

    確かに、帝国主義下で政治犯=刑事犯扱いされた人々の名誉回復も必要なことですよね。一般に歴史は常に勝者が書き、敗者は忘れ去られるのみです。だからといって我先に勝者を目指すではない、反権力的な伝達・歴史のあり方を探っていきたいですね。

    返信削除