八月も残すところあと四日となりました。早いものです。
日本の夏は死者の気配色濃い季節だと思います。今年は特にそうだったのではないでしょうか。
それでも、多くの死者を、先の戦争と結び付けて思いだすのは、終戦の記念日がお盆と重なる因果もあって、ごく自然なことだと思われます。
戦争、というとその勇敢さが多く称えられます。それは、命令に従って戦地で命を散らした場合でも、反抗という形であっても同様です。ベクトルの向きは違っても、評価の基準は同じだと言えます。
今、自分たちの国の進んでいる方向が間違っていると感じるとき、そして声を挙げて抵抗することが死と直結しているとき、それでもなお抵抗できるか、といわれると難しいでしょう。少なくとも私にとっては不可能事です。
そのような状況に置かれた勇気のない大多数の人がとるべき行動は?
そんなことを考えたのも、最近トルヒーヨ政権下のドミニカを書いた本を読んでいたからです。
ここに一人の人間がいて、その人はトルヒーヨの独裁下にあるドミニカの現状を耐えがたく思いながらも、表向きは完全に忠誠を誓っている。家族の身に危険が迫るまでは。
しかし、それでどうしたか?逃げなかった。逃げられる機会はあったのに、なにもしなかった。どうにもならないことは明白なのに、どうにかなるだろうと目をつぶって耐えていた・・・そして、悲劇。
よくある悲劇の型、おそらくは人類史上で何千回も繰り返された悲劇(それも繰り返されると喜劇になると言ったのはミラン・クンデラでしたか)。この悲喜劇の輪から勇気(=死)を持たずして逃れることはできないのでしょうか?
今回は二回に分けて書きたいと思います。では、また。
Au revoir, à ce soir!
墓地のすぐ向こうは海 |
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