2011年8月21日日曜日

アルクイユの水道橋 / 記憶の中の風景

おはようございます。

私の好きな現代作家の一人に堀江敏幸さんがいます。

この人の特長は意図的に‘récit’ と ‘roman’ の垣根を崩すような書き方をしていることでしょう。このことについて本人が書いた文章もあったと記憶しています。が、それはまた別のお話。

この人はフランスとの関わりが深い人で、まぁそれもフランス文学を教えている(曖昧)ので当たり前なんですが。フランスの現代文学の紹介や翻訳なども積極的に行っています。

日本でフランス現代文学と言えばせいぜいサルトル、カミュの時代止まりで、良くて nouveau roman の時代まで。一般の人がフランスの現代文学に手を出そうとしても、どこから始めればいいのかわからない、というのが現状。
そんな中で精力的に新しい文学を紹介してくれるのは、フランス現代文学の翻訳だけでは飽き足らず、原書のほうにも手を出そうという、私のような読者には非常にありがたい限りです。

さて、本職は小説家ですから、自分でもフランスのことを書いていて、それが日本風に言えば、「小説とエッセイの垣根を取り払った」ような小説です。特に印象に残っているのがタイトルの風景です。

かなり長いですが引用すると(この息の長い文章も堀江さんの特長であり、またフランス文学の伝統を受け継いでいると思うのですよ)、

駅舎を出て新聞や煙草も扱っている小さなカフェのまえを抜けるといきなり個人の敷地に足を踏み入れたような路地が現われ、その突き当たりを右に折れた先が、まっすぐ東へ下っていく急な坂道になっていた。深い谷をへだてたほぼ正面に白い給水塔がぽつんと浮き上がり、その隣には要塞さながらの威容を誇る病院のシルエットがひかえているのだが、坂の左半分を支配する途方もない石造りの水道橋の、天と地をむすぶかりそめの階段に気おされて、それら遠方の建物はみな、いくらか存在を薄くしているようにも見える。坂は膝がしらにたえず適切な屈曲を伝えてやらないとたちまち転げ落ちてしまいそうな勾配で、右手にひろがる墓地の壁も並行してのびているから、本当なら側溝のなかを進むぐあいにかなりの圧迫感があってしかるべきなのに、下るにつれて高さを増していく、キリンの脚さながらのひょろながく頼りなげな珪石のアーチから見える青空が逆に奇妙な解放感をもたらし、このまま橋梁が崩れ落ちたらひとたまりもなさそうな、ほとんど真下にあたる位置でつつましく肩を寄せあう家々の赤い屋根から突き出した煙突や、庭と呼ぶにはあまりに狭い囲い地に植えられた喬木までもが弱々しい藻類に見えてきて、まるで海の底に沈んだ遺跡のなかを歩いているようだった。不ぞろいな大きさの一戸建てがたがいの遠近をみずからの形で崩しながら張りついていて、筆触の不安定な油絵の画面みたいに折り重なった対岸の丘に目をやりつつ、ずらりと車がならんでいる傾斜地を、私は老人たちと変わらぬゆるやかさで谷底を走る国道へと下っていった。 『ゼラニウム(中公文庫 p.9-10)』

ふぅ。
で、こんな景色を一目見たいと思い、今回のフランス旅行ではアルクイユまで脚を伸ばしてきました。

けれども小説で読んで思い描いていたような光景はどこにも見当たらない。あくまで創作、あくまで記憶、なわけです。

でもそれは、記憶の裏切りでも、文章の背信でもなく、単なる現実の模倣にとどまらない新しい景色を読者の記憶に植え付けることに成功した、ひとつの「出来事」の創造なんだと思うのです。読者はその出来事を体験し、記憶する。これぞ小説の素敵な効能ではないでしょうか。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
アルクイユの水道橋。パリから電車で約10分。映画『アメリ』でも登場してましたね。

4 件のコメント:

  1. はじめまして。
    堀江敏幸氏の『ゼラニウム』を読んで、アルクィユの水道橋がどのようなものか気になって検索したところ、こちらにたどり着きました。
    まさに、小説の描写通りの写真を見て、感動しています。実際に目にしてみたくなりました。ありがとうございます。

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  2. >ゆうさん

    はじめまして。コメントありがとうございます。感激です。というのも、これが知人以外からの初のコメントでしたので。ゆうさんのように、通りがかってくれる人がいるんだと思い、嬉しく思います。

    アルクイユはパリからも近く、電車で10~20分くらいだったと思います。フランスに行かれた際にはぜひ足を伸ばしてみてください。
    アルクイユ滞在は短い時間でしたが、そこかしこに堀江さんの見た風景を探してしまいました。文章の力は偉大ですね。

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  3. はじめまして。ikas2ndと申します。
    突然で失礼します。
     
    私も上の方と同様、堀江氏のゼラニウムからアルクイユの水道橋が実際どんなものか、
    気になって検索して辿りついた者です。
    想像していたよりもずっと繊細な感じがしますね。
     
    堀江氏の小説はとにかく風景の描写が精緻なので、
    どうしても実在の場所が気になってしまいます。
     
    他国語も海外も苦手ですが、見に行ってみたいものです。
    ありがとうございました。
     

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  4. > ikas2nd さん

    はじめまして。コメントありがとうございます。
    堀江さんの小説の視覚的な魅力は、言葉に表しがたいものがありますよね。それこそ、実際に行って、見て、確かめたくなるくらいに…。

    ぜひ一度実物を見て来てください。パリ郊外の田舎町に溶け込んで、あまり目立つことのない(!)巨大な水道橋を描く堀江さんの筆力に、改めて感嘆すること請け合いです。

    またこのブログにもいらしてください。お待ちしています。

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