2011年8月27日土曜日

他人の記憶に溺れる愉しみ

おはようございます。

ここ何回かの漠然としたテーマとして、記憶について書いてきました。今回もその流れで。

あ、その前に。この投稿がなんと30回目になります。ちょうど二カ月このブログを書き続けていることになります。読んでくださっている方々、いつも感謝です。

前々回に少しだけ触れた Nouveau roman の面々は、各々が独自の路線を歩んでいて、とてもまとまった芸術運動とはいえないと思うのですが、一度そんな風に一くくりにしてしまうと、なるほど共通点があるように見えてくるから不思議なものです。

共通点としては、全員が実験的であったこともそうですが、なにより「視覚的」であったことが一番かと思います。

なかでも特に視覚的効果に突出していたのが、Claude Simon で、私の一番好きな作家でもあります。そもそもこのブログのタイトルからして、この作者の著作から拝借しています。

作風を一言であらわせば(って昨日も同じようなことを言っていましたが)、
記憶が思いだされるままに書く
ということですね。

日本語訳が出ているどの作品を呼んでも、作者の経験が色濃く出ていて、読者は別の作品で読んだ出来事を、別の作品では違ったところから眺めている、といった経験を繰り返すことになります。

または、「スペイン内戦」として語られる歴史上の出来事を、そうした背景を鑑みることなく、あくまで一個人として体験したことだけを提示する。

人間を数や量で測りとるのでなく、人ひとりが持つ「個」の厚みを如何に表現するか。それをクロード・シモンは無意識の中から浮かび上がる記憶の上澄みをすくいあげる、その作業を延々と続けることによって達成したと言えるでしょう。

クロード・シモンの本を読むという経験は、すなわちクロード・シモンその人の記憶を、言い換えればその人となりを読むことに等しいのではないでしょうか。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
Lyon 駅にて。出発直前にならないと乗り場がわからないことも

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