2013年1月19日土曜日

美徳や道徳はドブの中には落ちてない

前回紹介した Pascal Garnier 。彼は現代フランスの優れた Roman noir / ロマンノワール作家だといって過言ではない。

では、ロマンノワールとはなにか?日本では「暗黒小説」と訳されることもあることのジャンル、日本版Wiki に従えば、その源流が第一次大戦後アメリカで生まれたハードボイルド小説にあるように錯覚してしまいそうだが、実際のそれは16世紀スペインで誕生したピカレスク小説(悪漢小説)にある。

15世紀に隆盛を極めた騎士道小説の、いわばネガとして誕生したピカレスク小説は、その名の通り(社会的)悪者を主人公に据えた小説形式であり、犯罪(およびそれに準じた行為)が物語の主要な部分を占めている。

レイモン・チャンドラーやダシール・ハメットの小説を読んでわかるとおり、ハードボイルドが主人公の「生き様」に主眼を置いているのに対し、ピカレスク小説のほうは、「悪と正義」という倫理観を軸に、それを揺さぶることを楽しんでいる気配がある。

では、ロマンノワールはどうだろう?

この小説形式の明らかな直系の先祖として、医師であり反ユダヤ主義者であった、ルイ=フェルディナン・セリーヌがおり、また窃盗その他の容疑で何度も捕まり、ついには死刑宣告を受けるものの、その文学的才能に惚れこんでいたサルトルらの尽力によって刑を免れた、闇世界の住人、ジャン・ジュネがいる。

彼らの作品を他の大衆小説作家のそれと画しているのは、「卑劣さの美徳、その欠如」とでも呼ぶべき要素だ。彼らの描く人物は多く卑劣で、仲間内からも嫌われている、あるいはそれゆえに一種の尊敬すら集めている。そしてそのことに対し、一瞬たりとも罪の意識や倫理的な反省を抱くことがない。

――美徳?道徳?そんなものドブの中には落ちてなかったぜ。

悪徳商人から盗んだ金を貧しい人に分け与える鼠小僧、泥棒とは名ばかりの某三世など、悪人にも義賊要素が求められる日本では決して受け入れられないこれらの登場人物が、今もフランスのロマンノワール上では跳梁跋扈しているのか?

その答えはおそらく、Non だろう。フランスでだって、そんな人物は受け入れられない。というか、そもそも上記の二人が例外だ。レ・ミゼラブルだって、ジャン・クリストフだって、自分の美学に忠実に生きる、義賊の一種だ。「自分の美学すら容易に裏切ってみせる卑劣さ」なんて、誰でもが共感するものではない。

確かに、パスカル・ガルニエの小説を読むだけでジュネやセリーヌの作中人物が現代に生きていないことは容易に想像がつく。だが彼らの作り出したアウトローからも嫌われる卑劣漢を、単純な余罪の追及で死に追いやろうとは決してすまいという心意気をそこに読み取ることもまた、決して難しくないのだ。

ロマンノワール=反社会的小説ではない。むしろそれはミステリーと境を接した、人気のある文学の一ジャンルにすぎない。

ならばどこにそんな卑劣漢を見つけようか?『夜の果てへの旅』?『泥棒日記』?そんな遠くまで出かけなくとも、自分の心の中をちょっと覗いてみれば、そこいらじゅうをウヨウヨ這いまわっているのに出会えるだろう。

お前は卑劣さ、卑劣漢だよ、スメルジャコフ!

Au revoir et à bientôt !
修道院にも悪徳は存在する。たぶん

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