2012年4月16日月曜日

nouveau roman 考察――視覚小説誕生の理由

おはようございます。

少し前にクロード・シモンの新しい翻訳が出て興奮したって話を少ししました。

彼、クロード・シモンは文学史的な流れの中に置いて見ると、いわゆる「nouveau roman / ヌーヴォー・ロマン(新しい小説)」と呼ばれた面々に属します。彼はロブ・グリエと並んで、もっともヌーヴォー・ロマン的な作家だったと、私は思います。

予断になりますが、第二次大戦後のこの頃は、他にも「nouvelle vague」やら「nouvelle critique」やら、果ては「nouvelle cuisine」にいたるまで、とにかくなんにでも「nouveau, nouvelle (新しい)」の形容詞がつけられた時代でした。それもいまや50年以上昔のことになってしまいました。なんともまぁ。

さて、ヌーヴォーロマンのひとつの側面として、非常に「視覚的」な小説だということがあげられます。特に前に挙げた二人は。逆に物語性に乏しく、あまりにも視覚的に突出してるがゆえに、現在(そして過去も)十分な読者を得られなかった、と思われます。今回は、なぜヌーヴォーロマンがフランスで誕生したか、について考えたいと思います。

目に見えているものを淡々と描いていく、それが視覚小説の定義だとすると、どうしてもそこに「見る人」の存在が現れてきます。

その存在を隠そうとすればするほど露わになってきて、その人物が抱く感情の揺らぎが見え方に影響を及ぼす。つまるところ、視覚小説の根本には、「私とは誰か」といった、哲学の基本的命題が横たわっているということができます。

ただこれだけではフランスで、視覚小説が発展した理由にはならない。
思うに、フランスで(フランス語で)視覚的に書くことは、逆説的ですが非常に物語性豊かなのではないかと。なぜというに、フランス語の名詞のすべてには性別があるから。男性名詞と女性名詞ってやつです。

男と女がいるところ、すべからく物語が存在する。例えば「紙上で交わった垂直線と水平線」という文章があるとします。日本語で読むと特になんてことのない文章ですが、フランス語では垂直は男性名詞、水平は女性名詞なわけです。これを代名詞にするなら、人間と変わらぬ彼(il)と彼女(elle)となるわけです。

だから、前の文章を少し変換すると、「彼と彼女は紙上で出会った」と読み変えられる。こうなるとただの情報が物語に変化してる、と言えるでしょう。

ここまでくると、ヌーヴォーロマンや次の世代の作家たちが言葉を問題にしたのも良く理解できます。見ること、それを小説化するときに生じる物語。なんともぜいたくな悩みだと思うのは、私が彼らの文学に陶酔しているからでしょうか。

いずれ近いうちに原書で読み、日本語では隠された物語を読んでみたいものです。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
画像の選択がどんどんいい加減になってる今日この頃。

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