2012年4月22日日曜日

テオドール・パヴィ (1811-1896) について

おはようございます。

今日は表題のとおり、テオドール・パヴィという人物について、Wikipedia の情報をもとに書きたいと思います。

何故か、というと理由は簡単。現在この人の文章を翻訳しているからです。今はまだ1/5程度ですが、いずれ完成した暁には、このブログにでも載せたいと思っています。一応著作権フリーの文章なので、問題はない(はず)です。

さて、このテオドール・パヴィ(Théodore Pavie)という人物についてですが、おそらく日本ではほとんど知られていない作家でしょう。試しにGoogle検索をしてみましたが、なぜか一番上にはブルーノ・タウトのwiki ページが来る始末。もちろん日本語版のWiki には記事もありません。

というわけで、私が勝手にフランス語版Wiki から翻訳することにします。誤訳もあるかも知れません。発見次第報告していただけると、恥を晒す期間が短くなり、非常に助かります。

テオドール・マリー・パヴィ(Théodore Marie Pavie)。旅行家、作家、東洋学者。1811年アンジェに生まれる。1896年死去。
9つの言語を操り、アメリカ、中東、インド、レユニオン島などに滞在した記録、未刊行のデッサン集を残す。Revue des Deusx Mondes 紙やRevue de l'Anjou紙などに寄稿する。ウージェヌ・ブルヌフによってコレージュ・ド・フランスの教授に推挙され、そこで言語学やサンスクリット文学を教える。その後、西カトリック大学にて教鞭をとり、東洋文学・言語学を教える。

伯父に受けたロマン主義的な教育がのちにパヴィを旅へと駆り立てる。特にシャトーブリアンの著作に影響を受ける。1828年に初めての海外旅行でロンドンへ。その後、北アメリカ、カナリア諸島、エジプト、インド、レユニオン島などに出かける。

主な著作には『黒‐黄色人種狩り(1845)』がある。これはレユニオン島における奴隷狩りの問題を扱ったものである。

…とまあ、こんなものでしょうか。
彼がどのような思想を持って行動していたかに関しては、Wiki を見た限りではなんとも言えないところです。旅行していた範囲からして、いわゆる「オリエンタリズム」と良くも悪くも縁のある作家だと想像されます。もっとも即断は禁物、きちんと原文を読んで、内容を消化してはじめて、人物の評価を下すことができるでしょう。

現在私が翻訳しているのは、『Les Harvis de l'Egypte et les jongleurs de l'Inde』と題された1839年発表の短い文章です。一読してなかなか面白いなと思ったので、ちょっと翻訳する気になりました。
とりあえず今はこの翻訳を頑張って、完成次第、このブログに載せるつもりです。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
写真について語ることなんてなにもねぇ!

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