2012年4月5日木曜日

アメリカ人は糞真面目?

おはようございます。

昨日、仕事帰りに本屋に立ち寄ったらクロード・シモンの新しい翻訳が何十年ぶりかで出版されていて、興奮している私です。しかも『農耕詩』ですよ、どうしますか?もう一週間ぐらい仕事休んじゃいますか?真剣に有給を使ってシモンの世界に浸ろうか、熟考中です。

そんなわけで、昨日は風呂に入りながらヌーヴォー・ロマンの面々やその他さまざまな文学について考えていたのですが、いつも私が引っ掛かる点があって、それは
「なぜアメリカ文学は肌に合わないのだろう」
ということなんです。

現在一番翻訳されており、優秀な翻訳者や紹介者を抱えているのもアメリカに違いないのですが、どうも自分にしっくりこない。あらかじめ言っておきますが、これは作品の質が低いとか、面白くない、とかそういうことではありません。あくまで自分の、「お気に入り」にアメリカ文学が入らない、ということです。で、今回はその理由を探ろうと。

アメリカ文学の父、マーク・トゥエインから始まり、「ロスト・ジェネレーション」、「ビートニク」を経て、トマス・ピンチョンに至るまで、もちろんそのすべてを網羅した読書を行っているわけではありませんが、この作者の作品は全部読む、って作家は皆無です(例外はフォークナー。しかしそのフォークナーもアメリカで評価されず)。

なぜお気に入り作家が出てこないのか?
私が考えている理由はひとつ、 「笑いの糞真面目さ」 だと思います。

例えばトゥエイン。彼の笑いはあまりにも教訓的にすぎる。

「ロストジェネレーション」としてくくられる作家はあまり読んでいないので割愛。

ピンチョンの笑いはよく「破壊的」と表現されますが、そういってるのってけっこう年配の評論家だけな気がするんですよね。確かに時代が下った段階で読むのはフェアではないかもしれない。けれど今読んでなおかつ「破壊的な威力を持った笑い」と言えてしまうのは、ちょっと権威崇拝すぎるんではないでしょうか。
あざとすぎるんですよね、ピンチョンの笑いは。「どう、面白いでしょ?」って見せられてる感がある。ようはテレビなんかとおんなじで、もちろんそれも承知でやっているのでしょうが…。

「ビートニク」の笑いは好きなんですけどね、ケルアック、ギンズバーク、バロウズ。そこに付け加えるか悩むブローティガン。ただその笑いがドラッグなしにはありえなかったこと、「クスリがないと笑えない」悲壮さに泣けてきます。

まあようは、これらのアメリカ人作家の心理の根底に「糞真面目さ」があるんじゃないか、とまとめたかった、それだけです。

たぶんこれは私がフランスかぶれなだけで、フランス的ユーモア(humeur)に染まっているからで、アメリカかぶれの人にじゃあフランス的ユーモアってどんなんだよって突っ込まれても答えられないわけで、そもそも私にはアメリカ人の知人なんて一人もいないのでアメリカ人の性質について語る資格なんてあるわけもなく、とりあえず、フランスかぶれ= francophile って素晴らしい単語があるってことをここでお知らせしておきます。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
どんだけフランスびいきやねん!

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