2012年7月19日木曜日

文学と国民性

おはようございます。

先日、タブッキの『イタリア広場』、パヴェーゼ『流刑』と、イタリアの作家を続けて読みました。

そうなると当然のように、自分の中に二人の共通項目を探そうという働きが湧き起こってくるのです。まるで一個人間の相違よりも、共通する国民性なるものが存在する、とでもいうかのように。

これまでにも何度か、このテーマについて側面から取り上げたことはあるのですが、今回はこれを正面に据えて書いてみようかと。

実際あまりにも無謀で暴力的なこのような取り組みを、自分に正統化させたのは、ひとえにツヴェタン・トドロフの次のような言葉に出会ったからです。少し長いですが引用すると、

総称的なレッテルの下に個々の思想家たちをまとめることには、いつでも不安がともなう。<…主義>という語が好きな人はいない。理由は言わずと知れている。グループに分類するたびに、何かしら暴力的、恣意的なものが入り込むからである。・・・しかしながら、これを用いようと決めたのは、これには長所もあるとみているからである。・・・私にとって証明することはできなくとも、いくつかの類似性、いくつかの差異の中には、他と比べてより重要なものが存在するということである。したがってそれがこうした分類を正当化するのである。『未完の菜園(p.15-16)』

となるとここで求められているのは、他の瑣末な差異よりは重要な類似性の発見でしょう。要は「イタリア文学」とくくったときに見出される共通点。

同様のことが他の分野にも言えるでしょう。「ロシア文学」「日本文学」とくくることで、見えてくる共通点。あるいは「近代」と「現代」といった時代区分とその差異。

そのために必要な方法論など持ち合わせていない私からすれば当然自分の心象を書くより他はないでしょう。

そこで重要となるのが、以前にも書いた「美的排斥」に反する意識、つまりどのような「美意識」を持ち合わせているか、だと思います。

タブッキとパヴェーゼ、それにカルヴィーノも加えて彼らに共通する美意識を探るとすれば、それは「海への憧憬」とならないでしょうか?彼らには海に囲まれた半島に住んでいるにもかかわらず、海に、そこに仮託された自由に憧れを抱く、そんな心象を抱いている印象を受けます。もちろん、ただ私の思いこみなのですが。

では、また。

Au revoir, à la prochaine fois!
須磨水族館


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