2014年4月24日木曜日

スペインと昭和の貧しさ

今って平成何年だっけ?24年、それとも25年?え、26年?ha ha ha 、面白い冗談だ。

なんにしろ、これは確かだ。もうしばらく前から新入社員は平成生まれが当たり前で、昭和生まれの新卒なんて、ほとんどいない。そして、これからこれからもそうだ。時間の逆行はありえない。昭和を経験したものはみな、若者でなくなってしまった。昭和生まれの若者なんて、もういない。

昭和が街から消えてどれくらい経つのだろう?昭和50年代後半に生まれた私が、正確に測ることはできない。私の中に残っているのは、昭和の汚さだ。平成はキレイだ。潔癖に近い清潔さに私はしかし、少し居心地悪く感じてしまう。

時代の大きな転換点、というものは実際にあって、日本ではそれが1950年代後半(昭和30年代)に訪れた。家電の三種の神器と呼ばれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機の登場は、人々の暮らしを根底から変えた。

どれぐらい変わったかって?応仁の乱(1467-1477)以来、大きく変更されなかった生活様式が変わったのだ、といえばその激変ぶりが理解できるだろう。人々が使用する道具は、幾度も改良が成されたとはいえ、基本的に同じものだった。これはつまり、1950年代の主婦が1500年ごろにタイムスリップしたとして、多少の戸惑いはあるにしても、普通に生活できるということだ。これってすごくね?

平成と昭和の境目が、これほどの大変動であるかは、後世の検証を待つ必要があるが、小変動であったのは確かだ。平成生まれが昭和に戻って生活できるか?平成生まれを貶すのでなく、それだけの変化があった、ということだ。

ミゲル・デリーベスの『ネズミ』を読んだとき、同じような時の断絶を感じた。

舞台は1955-56年のスペイン。カスティーリャ地方の一寒村。石ころだらけで作物もまともに育たないこの土地で、主人公のニーニ少年は、おじさんの「ネズミ捕り」と一緒に洞窟で暮らしている。川のネズミを捕って生計を立てている彼らの生活のみならず、他の村人たちの暮らしもおしなべて貧しい。村には電気もガスもなく、あぜ道を未だロバが闊歩している。そのロバでさえ、特権者の証だ。

死が暮らしのすぐそばにあって、その暗い深淵を覗かせている。人々はそこを覗き込み、自分のほうを見つめ返す深みからの眼を感じながら暮らしている。現実からは目を背ける。他に方法がないからだ。その局面を打開するための、財も、策も、才覚も、なにもない。貧に縛られ、人々はただ、死に頭を食いちぎられるのを待つ。それすらも救いの一種だと捉えかねない諦念とともに。

このような貧しさは、現在の日本では見られない(おそらくはスペインでも)。先進国では貧しさは、別の次元に移行した。全員が平等に叩き落され、よじ登る見込みのない底なし沼のような貧困から、やっかみと嫉妬の渦巻く、ところどころに開いた落とし穴に。落とし穴に巻き込まれる途中幾度も、普通の暮らしをおくる人々の姿が見えて、それがいっそう自分の陥った悲惨に自覚的にさせられる。人は他人をひがみ、自らを卑下する。現代の貧しさは心を蝕む。『ネズミ』はそれ以前の、貧しさの中にも高貴さを保った人が(も)いた、そんな時代の物語だ。

Au revoir et a bientot !

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