2014年4月5日土曜日

『不死身のバートフス』

怒りに支配されるとき、人は無口になる。

バートフスは、無口だ。それが、彼を人々から遠ざける――そこにはかつての友人や知人、あげく今一緒に住んでいる家族までも含まれる。

沈黙は忘却と踵を接しているのだろうか?ある場合は――シュペルヴィエルの詩のように――そうだ。別の場合には、また違った側面を照らし出す。「覚えているから忘れてほしい」その願望の現われとしての、側面。

バートフスの今を支配するのは、「不死身」と呼ばれた収容所での過去だ。どこに行ってもその称号は彼に付きまとう。後ろに伸びる長い影のように。人はその影を見て、彼を判断し、呼びかける、「不死身のバートフス」と。快感はない。むしろ苦痛だ。

バートフスは怒り、自分の中に閉じこもる。そのための金は、十分にある。トレーダーとしての資質が彼を助けている。非合法的だとしても、見逃されている。

ときにバートフスは、自分の内面を誰かにぶちまけたいと思う。だが、誰が聞いてくれるだろう?家族とのつながりは、はじめからないに等しい。友人たちは彼の元を去った。カフェで出会う戦時中の知人も、すでに今を生きていて、過去の話には取り合わない。なのに彼には、彼の周りでは称号が一人歩きする。バートフスには過去に苦しめられているのが自分だけのように思える。

『Le garçon qui voulait dormir』 と同様、これは過去の自分とその幻想に苦しめられる人間の物語だ。どちらの主人公も、人々が勝手に自分に抱いた幻想を否定するために生きる。

その姿はそのまま、筆者アッペルフェルドにも重ねられる。彼もまた、「ホロコーストの作家」というレッテル貼りから逃れるために、苦闘する。

『Le garçon qui voulait dormir』 の少年が物語の冒頭で目覚めたのに対し、『不死身のバートフス』では、結末部分でバートフスが眠りに落ちる。これまで不眠に悩まされていた彼が、「これからは、胸のなかの心配はすべて忘れて眠るんだ」 と自分に言い聞かせて、豊満な眠りに身をゆだねる。

作者自身がそのどちらを選んだのか。選択の結果は明白だ。彼は目覚めて、書く。たとえそうすることによって、レッテルを剥がすことができなくとも。それが、生きるということだ。

Au revoir et à bientôt !

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