2014年4月11日金曜日

人間は考える葦だなんて、パスカルに言わせておけばいい――『ブラス・クーバスの死後の回想』

これが19世紀の小説かよぉ!反・物語の意識を強く持ちながらも、ちゃんと小説してる。20世紀の小説が求めたものがここにある。この作品がこれまで日本で紹介されてないって、どうよ。

『ブラス・クーバスの死後の回想』は傑作だ。発表は1881年。作者はブラジルのマシャード・ジ・アシス(1839-1908)。西洋の同時代の著名な作家といえば、ディケンズ(1812-1870)、ドストエフスキー(1821-1881)、レフ・トルストイ(1823-1910)、エミール・ゾラ(1840-1902)、マーク・トウェイン(1835-1910)など錚々たる面々で、まさに文学界のオールスター。マシャード・ジ・アシスはこれらの作家と同列に並べて語られるだけの価値がある。

文学に興味のない人でも聞いたことのある名前ばかり。これを見てもらえばわかるとおり、19世紀は小説の最盛期だった。バルザックが19世紀初頭に確立した小説芸術が、半世紀と経たぬうちに全盛を迎える。19世紀は文学の中心が詩から小説へと、決定的に移り変わった時代だ。

この時代に「物語」の枠組みも作られたといってよい。それと同時に、大衆文学と呼ばれるジャンルも確立した。何度も繰り返され、矮小化されたプロットが、巷に氾濫することになる。流行ればそれを疎ましく思う人もいる。多くの場合それは、自分たちが苦労して作り出した枠組みを流用され、悪用された作家たちだ。彼らはより、新奇で珍しい枠組みを創り出そうと辛苦したあげく、大衆から離れてしまうことになる――これは20世紀文学の話。

そんな風に時代の流れを捉えてみれば、この小説、作家もまた同時代に生きていた作家だといえる。違いはといえば、社会の違いだ。産業革命後のヨーロッパと、奴隷制の影響が未だ色濃く残るブラジル。社会の違いは作家の資質の違い以上のものを、作品にもたらしている。

解説によると、ブラジルの文学百選を募ると、この作品が必ず上位に入るそうだ。世界文学においても、上位は難しいかもしれないが、中位は狙えるだろう。少なくともベスト100には入れてあげたい。

ここまで全く作品の内容に触れていないのでちょっとだけ。最初にも書いたように、この小説は「反・物語」だ。亡くなったブラス・クーバスが自らの人生を振り返るのだが、そこには奇想天外な冒険短も、出世の階段を駆け上がり、転落する人生も、ない。主人公はただ、知人の妻と不倫し、政界に出馬してさしたる功績もなく引退し、結婚しようとして失敗し、先祖から受け継いだ財産を蕩尽というほどもなく、ほどほどに使って、死に至る。面白いことはなにも起こらない。平凡な人間の平均よりも事件性に乏しいとさえ、いえる。だがそんなしょうもない一生を、500p以上にわたって書きつづけ、それで読者を飽きさせない、というのはやはり、才能のなせる業だろう。

作中より、好きな表現を引用してみよう。

…人間は考える葦だなんて、パスカルに言わせておけばいい。違う。人間は考える正誤表、そう、そうなのだ。人生の各局面が一つの版で、それはその前の版を改定する。そして、それもいずれは修正され、ついに最終版ができあがるが、それも編集者が無視にただでくれてやることになる。(p.139)

ここで作者は、人生を一冊の本にたとえている。これはこの小説全体を貫いているテーマであり、ブラス・クーバスは自らの息切れを文体に反映させている。まさしく、「文は人なり」――私も、こんなだらだらした文章を書いて、人格を疑われるようなことは止めにしよう…。

Au revoir et à bientôt !


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