2013年5月9日木曜日

オランピア、母に会う

オマージュとパロディ、盗作の境界線は曖昧だ。とりあえず、どれもすべて元となるネタが存在するが、それに対し、密やかな目配りをするのがオマージュ、それなしには成立しないのがパロディ、もはや元ネタと区別がつかないのが盗作としておこうか。

とりわけ小説や美術の世界で、それらは活発だ。いや、そもそもこれらの呼称が芸術作品にのみ使われている、というのが正しい。優れた作品は優れた後継者を生み出す。それはひとえに真似ぶ力だ。

4月末、歴史的な邂逅がなされた。マネの傑作、『オランピア』が、歴史上初めてフランスを離れ、16世紀の画家ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』とヴェネツィアの地で出会ったのだ。

世界一美しい二人の女性は、同じ壁に並んで飾られ、各々に自らの美を主張する。ミシェル・レリスが夢見た一生に一度あるかないかの奇跡が、21世紀になって実現した。

この二人を共に「世界一美しい」と表現するのは、矛盾を孕んでいるようでいて、そうではない。なぜなら、『オランピア』は、『ウルビーノのヴィーナス』の直系の子孫、更に言えば母と娘の関係にあたるのだから。

マネが初めて『ヴィーナス』を見たのは25歳のとき。彼女は既に有名人であり、1775年にはマルキ・ド・サドを悩殺し、「高級娼婦」と揶揄されていた。美の女神は1863年、31歳のマネの手によって正式に娼婦へと格上げされる。

『オランピア』の中でマネは、偉大なる前任者にオマージュを捧げつつ、7つの違いを描き出している。モデルの女性がサンダルをはき、首に紐を巻いていること、忠実さのシンボルである犬が、黒猫に変えられていること。もちろん猫は気ままさのシンボルであり、同時に姦淫の象徴でもあり、その証拠に尻尾は性器を象っている。

あの『草上の昼食』よりも当時過激とされたマネの作品。その本質にあるのは、平凡さの中に潜む不遜だ。裸体画とは本来、あるいは建前として「美」を崇めるためのものであり、好色な目的のものではなかった(とされていた)。

マネの前では建前の仮面はいとも容易く剥ぎ取られる。オランピアの率直な、鑑賞者をじっと見据える眼差しによって。

そういえば、ニュースでは『オランピア』搬入時の様子も報じられていた。それによると同作は、ごく平凡なトラックに乗せて運ばれてきたという。トラックの荷台に『オランピア』を乗せる不遜さ、この行為もまた、マネの作品のオマージュ、といえるかもしれない。

Au revoir et à bientôt !

 

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