2014年1月29日水曜日

すべての傑作は特殊な例外である

かつて風景画は絵画の位階において一番低いところに位置していた。

美術史を開くと決まって用いられるこのロジックに、最初は無批判に納得し、首肯していた。そうして、レンブラントやターナー、マネと印象派の革新性と時代を切り開いた努力に感心させられていた。だが、ふと、あるとき立ち止まって考えてみる、「本当にそうなのだろうか?」と。

一等高い位置に宗教画があり、その下に歴史画や人物画、さらにその下にはごたまぜに、静物画や風俗画と一緒に風景画がある――おそらくそれは正しいのだろう。だが、その仮定を受け入れたときに、ひとつの矛盾が生じる。なぜクロード・ロランは17世紀当時、歴史画の体裁をとりながらもその実ほとんど風景画といえる絵を描き続けながら、かくも絶大な人気を誇り、あまつさえ多大な贋作を生み出すに至ったのか?

安易に答えを出すことはできない。なぜならそれは、クロード・ロランの描いた作品の魅力を語ることと同義だからだ。同じく時代は下るが同時代から受け入れられ、賞賛されたイギリスの画家、ターナーの展示会に行って、その感を強くした。時代を超える作品の多くは、その当時の社会の要求を超えたところに存在するのだ、と。

ジョン・バージャーの『イメージ 視覚とメディア』(ちくま学芸文庫)は、硬直した絵画の見方を一変させるだけの力を持った力作だ。以下にごく簡単に要約してみよう。

画家にある物をキャンバスに描かせるということは、と彼は語る、それを買い、家のなかに配置することに近い行為といえるだろう。物を描いた絵を買うことは、その絵があらわす物の外観を買うことでもある。

見ることによって所有することを可能にした芸術形式、それこそが油絵であり、多くの凡作に過ぎない油絵はただ、市場の要求にしたがって、ただ金で買えるものを示したに過ぎない。要は油絵とは、貨幣の変種といえるのだ。

後世から観るわれわれに、そのことは見えずらい。なぜなら、後世に残っているものはほとんどが傑作であるからだ。だが忘れてはいけないことがある、すべての傑作は特殊な例外である。傑作が時代の欲求と外れたところにある以上、それらを時代jを追ってつなぎ合わせたところで、当時の社会がよみがえるはずがない。

とりわけ、風景画においてそうだ。伝統的な絵画の位階において、確かに風景画は低い位置ににあった。だが風景画ほど自立的な絵画行為はなく、それゆえ最初の独創力はいつも、風景画から起こったのである。同時代と後世の評価が交錯するクロード・ロランやターナーといった画家は、まさに「幸福な例外」と呼べるのだろう。

Au revoir et à bientôt !
神戸のターナー展にて

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