過去にその語を耳にしたことは片手で数えるほどしかないのに、一週間や二週間そこらで2度もその単語に出会うとしたら、それは啓示だ。まったく関係のないモノ同士を結び合わせる絆は、手を離せばほどけてしまう。
最初に出会ったのはいつものように、C'est arrivée aujourd'hui の記事だ。1903年1月4日、1500人の野次馬たちが集まったルナパークで、一頭の象 Topsy の公開処刑が行われた。罪状は殺人。火のついたタバコを食べさせようとした愚か者を踏み潰したカドで告発され、弁護人もなく死刑が言い渡された。年齢は28歳のアジア象。Forepaugh サーカスの一員として働いていた。
ここに見る暴力と群集の熱狂におぞましさを覚えながらも、安易に非難しない(できない)のが、人の弱さであるとともに、共感の持つ力だろう。
次にそれは文学の中に現れる。
昨年超大作 『2666』 が日本語訳されて以降、いまや今世紀最大の文学的事件として扱われつつある(もちろん日本での話だ)、ロベルト・ボラーニョ。彼の生前最後の短編集『売女の人殺し』、その一編「フランス、ベルギー放浪」の中にルナパークは登場する。

そこに寄稿している作家の中で、アンリ・ルフェーブルなる人物だけが、Bが何も知らない唯一の名前で、その名前が古本屋のなかで、まるで暗い部屋でともしたマッチみたいに突然輝いて見える。少なくともBはそう感じる。
傑作長編小説『野生の探偵たち』のミニチュア版ともいえるこの短編で、Bがルフェーブルに寄せる想いもまた、共感と呼べるのではないだろうか。そしてベルギーに訪れた昔の知人MがBに抱く想いもまた。
それは互いに断絶された二人の人間が虚空に伸ばした腕のような想いだ。たとえ指先しか触れ合わないとしても、あるいは届かないとしても、伸ばした腕の形はきっと、忘れられずそこにあって、たとえ互いに忘れたとしても、別の時間、別の孤独な誰かがその場に居合わせて、それを見つける。想いはまるで暗い部屋でともしたマッチみたいに突然輝いて見える。少なくとも私はそう感じる。
Au revoir et à bientôt !
0 件のコメント:
コメントを投稿