2011年11月25日金曜日

言葉に敏感になる

おはようございます。

今回からいつも通りのブログでお送りしたいと思います。

さて、表題。
人が別の人に自分の意思や気持ちを伝えようとする場合、そのあいだを介するのが身体言語なども含めた「言葉」なわけです。

これはそのまま人間の脳内の情報交換の働きに対応していて、神経細胞(=人間)同士のあいだを神経伝達物質(=言葉)が行きかう場、シナプス(=会話)があるという構図。自然はフラクタルな構造に惹かれるのだ、という好例でしょう。

しかし、人間同士の会話と神経細胞同士のそれとの決定的な相違は、その情報伝達にしばしばミスが生じる、ということでしょう。
本来伝えるべきものとは違うものが伝わったり、きちんと伝えたつもりでも相手が勘違いしていたり、あるいは、言葉足らずながら十分に気持ちは伝わったり。1を伝えるのに必要な言語が必ずしも1とは限らない、この面白さが人間の良いところなのでしょうか。

また、単語に含有される意味、あるいはそこに付与された意味が各個人によって異なっていて、その語のニュアンスが人によって異なる、といったことは実によくあることでしょう。

個人的な体験として、福祉の業界で働き始めて最初に気になったのが「傾聴」でした。
福祉の業界では、「人の話を注意して良く聞くこと」=「傾聴」という意味で使われることが多く、「まずは利用者の話を傾聴するのが大事だ」なんで言葉が良く聞かれるのですが、そのたび変な感じになります。

というのも、この語は本来あからさまな上下関係を含んでいて、上の者が下の者の意見を一向に値するものとして、「頭(耳)を傾けて」聴くわけです。当然、頭は下を向いていることになります。おそらく、「能動的に聞く」ということで、ことさら傾聴なんて言葉を持ち出してきたのだと思うのですが、それなら単に「聴く」の語を当てればいいだけで。
「傾聴」では「聞いてあげている」感が丸出しで、気恥かしい。この無意識のうちに含まれている上下関係こそ、今の福祉業界に蔓延している空気なのかな、と個人的には思っていますが。

あるいは、単語が国を越境することで意味が変わり、中身も変わることもあります。
今ではあまり使われないかもしれませんが、「シュールな」という表現が日本語にありますね。「シュールな笑い」なんて使われ方をしています。

これ、フランス語の「surréalisme」由来ですね。
「surréalisme」という芸術運動が日本に紹介されるにあたって、なぜか中途半端に英語読みされ、「シュールレアリズム」(*)となり、その頭が切り離されて、今の「シュール」という日本語になっているようです。
もっとも、この切り離された「シュール」は、フランス語の「sur」、つまり「~の上に」という前置詞部なわけで、それ自体にはなんの意味もない。

それでも、ダリやルネ・マグリットの如何にも「surréaliste」な作品を見ていると、日本語の「シュールな」という表現がなにを言いたいか、なんとなくわからないでもない気がしてきます。

この、フランス語が英語を介した奇妙な訳をまとわされ、首だけを切り離した状態にされても、あるいはそうされることによって、その単語のなかに、元の語の本来性を表している、このねじれ方が実に「シュール」だ、と言ってしまえば、これもまた一種のフラクタル模様な気がしないでもないでもないのです。

では、また。
 Au revoir, à la prochaine fois!
surréalismeとは無縁なロダンの作品…だったはず。
(*)フランス語をそのままカタカナ変換するのなら、「シュルレアリスム」が一番近い。現に今はこの語を翻訳する際はこれが当たり前になっているようです。

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