2013年10月27日日曜日

『そして父になる』って言われても

映画においてわかりやすさは重要だ。

他の芸術では許される言葉による補填が、会話という最低限の形でしか許されない。とりわけ現代アートにおいて言葉の重要性が増すにつれて、映画は、音楽や演劇についで言葉の重要度が(比較的)低い芸術になった。

そうである以上、映画がイメージに頼るのは必然の流れだ。とりわけ、起用されている俳優の社会的イメージがはっきりしている場合、それを利用しない手はない。福山雅治には福山雅治の、リリー・フランキーにはリリー・フフランキーの、メディアが作り上げたイメージ。

各俳優の持つこのイメージを、『そして父になる』は丁寧に、壊れ物を扱うかのように、扱う。各俳優の持つイメージの文脈に従う以上、それぞれが演じる役割は自ずと限定される。福山雅治が貧しいが子沢山で幸福な父親を演じることは、リリー・フランキーが高学歴のエリートな父親を演じるのとと同様、不可能に近い。

映画にわかりやすさは重要だ。それは観客に安心感を与えてくれる。映画の中の登場人物が普段テレビの中でみる俳優のそれと類似・酷似していること。日常との地続きの感覚は、映画を日常の中に位置づけてくれる。

だがその安心感は本来、そこからの離陸、浮遊の感覚を呼び覚ますための大地であるはずだ。日常が瓦解するときに見える世界を垣間見せること。平凡な定義かもしれないがそれが今も、映画を含めた芸術の使命だ。

この映画の題材はまさにそんなところにある。自分の息子が実は全く血の繋がっていない他人の子供だったこと。それは現実に起これば、地面が足元から裂けるような感覚だ。

だが俳優たちの不変性・不動性のもたらす安心感が、パラシュートの役割を果たす。ゆっくりと、安全に観客はすぐ近くの地面に着陸する。登場人物たちが右往左往する素晴らしい景色を足元に見て、身の危険を感じることなく。

わかりやすさは重要だ。だがそこからイメージをずらし、観客に不安を与えるために。だからわかりやすさは映画にとって重要ではあるが、本質ではない。本質はきっと、そこからほんのわずか上下左右、どちらかにずれたところにあるのだろう。心臓が人体の中心から、少し左にずれたところにあるように。

Au revoir et a bientot !

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