2013年10月21日月曜日

『大統領の料理人』と政治学

極寒の地、南極。地軸の南端に位置する、生物の住まない土地にも人間は暮らしている。

南極のフランス基地に向かう船上でのインタビュー場面で映画は幕を開ける。インタビューに応じているのは、中肉中背、半ば禿げかかった30代の男。この度新しく南極基地の料理人として赴任してきた。一年の任期を終えた前任者と交代するために。

その前任者こそ、元エリゼ宮の料理人。彼女こそが大統領の料理人だ。

南極基地で働く現在から、エリゼ宮での2年間を回顧する。このエピソードって蛇足だよね。人物描写が深まるわけでも、コンポジションによって大統領の料理人としての仕事が際立つわけでもない。

そんな瑣末なことはわきによけて、物語の重心に目を移そう。
フランスの一地方で旅館をしていた女性がある日突然、大統領府に呼ばれ、大統領の料理人となるーーいいよ、別に。そんなこともあるだろうさ。彼女だって、、それなりに名の知れた料理人なんだから。

それでも、彼女の人物像はいただけない。

女性が男性優位の社会で活躍するさまを見るのは爽快だ。周縁が中心を変えていく、トリックスターの働きがそこに顕現するからだ。観客がこの映画に求めているのは、彼女がお堅い大統領府のしきたりを次々と破っていく、そのカタルシスにあるはずなのに、ここには、それがない。

映画内で彼女の勝利はつかの間だ。それもおそらく、宮廷に何がしかの影響を与えるにも至らない。映画が始まってまもなく、彼女は敗退を続ける。料理に使用する材料や金額は制限され、主厨房の協力は得られない。唯一の味方は大統領のみだが、彼もまた本人の力の及ばないところで管理下におかれている。

いまや周りは敵だらけ。そんな状況に置かれた二人が真夜中の厨房で交わす場面は印象的だ。大統領が「逆境だからこそ頑張れる」というのに対し、弱々しく微笑む彼女。やがて彼女は、2年間勤めた仕事を自ら放棄する。

この映画に欠けているのは、自分の主張を押し通すために必要な政治学だ。料理人であれ大統領であれ、自分のやりたいことを成し遂げるためには根回しが欠かせない。それを人は政治と呼ぶんだろう。

もっと大統領の料理人の破天荒さが見たい。追い出されて、泥にまみれても、「絶対に見返してやる」と目を血走らせる活力。この映画にはそんな、絶対的なエネルギー量に欠けている。

「ステレオタイプを恐れないで」そう声を大にして叫びたくなる作品。そんな肩肘張らず、もっと気楽にいこうぜ。

Au revoir et a bientot !


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