2013年11月29日金曜日

金沢懐古――武蔵が辻

夕方になるともとから悪い視力がいっそう悪化し、まわりの世界が鮮明さを失う。それに伴い、ものとものとのあいだにあった輪郭線がぼやけ、取り違えがおきる。視力が悪いのに眼鏡をかけない人間は、しばしば体験することだろう。

錯視はときに、およそ夢ですらためらうような幻を生み出す。

もう何年も昔の話だ。
金沢にしては珍しくよく晴れた日の夕方に、私は自転車で武蔵が辻を通りかかった。当時はまだイオンで買った一万円の折りたたみ自転車に乗っていて、普段からメンテナンスを気にするようなこともなく、タイヤの空気がほとんど抜けかかっていた。幸いにしてパンクはしてないようだから、家まで戻るのにたいした問題もなさそうだった。

視線の先では、少し離れた交差点で信号が青になっているのが見えた。渡ってしまおうと私は、サドルから腰を上げた。

ちょうどそのときだ、交差点に差し掛かる少し手前の左側、銀行の前に空気入れが置いてあるのを見つけたのは。

はじめは少し戸惑った。いくらなんでも話が上手すぎた。タイヤに空気を入れたいと思ったその数秒後に、ありえない場所でありえないものを見つける。偶然にしてはできすぎていた。

スピードを落とし、ゆっくりと近づく途中、半信半疑で何度も確かめて、ついにそれが空気入れであることを確認した私は、自転車を押しながらそのほうに近寄っていった。

だがそれは、手を伸ばせば届く距離になってふいに、空気入れとはまったく別のもの、銀行の前に腰を下ろしてバスを待つ白髪のおばあちゃんに変わってしまった。

そのときの当惑はずっと、私の口をつぐませていた。だって、誰が信じてくれますか?空気入れが実はおばあちゃんだったなんて?ばかばかしいにもほどがある。けれど、そんな馬鹿げた体験をしたことも、疑いようのない事実なのだ。

今回金沢を訪れると、件の建物は残っていたが、そこに銀行はなかった。金沢の友人に確かめても、「そうだったかな?」と確かな返事は返ってこない。銀行も、空気入れも、おばあちゃんもすべてが幻だったのか?そんな風に片付けられるのは三文小説の中だけだ。

以前に『場所が記憶する』と題した文章をこのブログで書いた。「人は場所に自分の記憶を委ねている」といった趣旨のものだが、どうやら場所もまた人の記憶に依存しているようだ。

ある場所にあったものが壊され、別のものになる。そこに住む人たちはすぐに新しいものに慣れ、以前あったものの記憶は、姿とともに忘れられる。そうした過去が忘却の淵に葬り去られるのを防いでいるのは、案外私のような異邦人たちなのだろう。そしてこんな風に語ることによって、在りし日の姿を、つかの間垣間見せてくれるのだろう。

Au revoir, et a bientot !
犀川のほとりで。この写真自体4年前に撮ったもの

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