数年前に出始めた当初は正直、侮っていた。ドストエフスキーやコクトーなんかの既訳が存在するベタな売れ筋を、少し手直しして並べただけだろうって。
違ったね。ナボコフやスティーブンスンあたりの有名作家の絶版・未訳ものを出したかと思えば、ブッツァーティやプリーモ・レーヴィあたりの現代イタリア文学を紹介してみたり。果てはわが心の詩人、シュペルヴィエルの小説にまで手を出してしまう。もっとも彼の小説は、「知らなければよかった」類のものなのだけど。
言ってみればこのシリーズは、『今もっとも熱い海外文学シリーズ』なんて、実にマージナルな分野のチャンピオンリングを、白水社のエクス・リブリスシリーズと争っているといえるだろう。
さて、今日はその中からプリーモ・レーヴィの短編小説集、『天使の蝶』の紹介を。
この、SF的雰囲気が多分に感じられる短編集の中でも、とりわけシンプソン氏とNATCA社の画期的な製品が生み出す近未来的な世界像は、同じく20世紀イタリア発祥の芸術運動、「未来派」を必然的に想起させる。そしてその未来派がイタリア・ファシズムに利用されたという点において、イタリア系ユダヤ人として1944年アウシュビッツに収容された筆者の体験と、皮肉な対照を成す。
アウシュビッツでの体験を冷静な視点から描く、『休戦』や『これが人間か』がこの作者の代表的な一面だとすれば、この短編集ではまた別の一面、すなわち「創作を愉しむ」作家としてのレーヴィの顔が見れる。

実はこの命題、1920年、レ・ボルクという学者によって実際に取り上げられている。彼によるとヒトはチンパンジーのネオテニーだという。この議論の結末はわからないが、マッドサイエンティスト、レーブは続けてこう考える。「ヒトは天使のネオテニーではないか」
レーブは人体実験に取り組み、その結末はグロテスクなものだが、この命題自体は今も通用する。それを大人になりきれない現代人のアレゴリーとして読むのもいいだろう。それが少しばかり教訓的すぎるというのなら、どうぞお好きなように。読み方は自由だ。
そう、アイディアや下書きと作品とのあいだに横たわる画然とした溝こそが、自然界で「変態」と呼ばれる現象であり、芋虫が蝶になる瞬間なのだ。どんなに不恰好な蝶でも蝶に変わりなく、同じようにどんなに美しい芋虫も、芋虫以外ではありえないのだ。
Au revoir et a bientot !