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2014年8月9日土曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 5/6 ――世界の果ての通学路

すごく良いドキュメンタリー映画。「日本に生まれた幸せ」ってよく言われるが、普段実感することはなかなかない。これはそれを感じさせてくれる貴重な映画だ。


学校に行くために、毎朝ゾウに襲われる危険を冒しながら、アフリカの赤銅色の大地を駆ける二人の兄妹がいる。妹と共に馬に乗って通学する、アルゼンチンの12歳の少年がいる。ボロボロの車イスを押して、泥道や川を越えるインドの三人兄弟や、週末だけ家に戻り、週の始めには22kmもの距離を歩いて通学するモロッコの少女がいる。

日本にはない地形、風景。野生のゾウやキリン、サイが利用する同じ道を通って、兄と妹は学校へ走る。ときに野生動物の襲撃を恐れ、岩肌をよじ登って遠回りをし、あるいは草むらに身を隠す。そんなところにも学校は存在するのだ。まず、そのことに驚く。

週に2回、少女は学校までの道のりを歩く。22km、石ころだらけの山道を、近くに住む二人の友達と一緒に。何時に起きる必要があるのだろう?5時にはもう、両親の住む家を離れ、学びの宿舎に向かっている。

馬なんて、日本ではもう神話的生き物だ。街中で見ることはまずない。それはイベント、祝祭的な動物だ。アルゼンチンの12歳の少年にとって、馬に乗ることは日常だ。小さな妹を連れて、馬に跨り、学校に向かう彼の姿は、日本に住む私には少年神のように見える。

インドでは、まだ日本的にも見慣れた光景がある。3人の兄弟が電柱の並ぶ道(そういえば、最近では電柱もあまり見なくなった気がする)を、車椅子を押して進む。
長男は脚が悪い。でも二人の弟は兄のことを誇りに思う。だって彼は勤勉で、頭がいいからだ。自慢の兄を、二人は毎朝車椅子に乗せていく。舗装されていない道を行くことは困難だ。彼らにとって通学は、毎日冒険だ。

映画だから描かれていない事実もある。同じように苦労して学校に行っているからといって、みながみな彼らのように勤勉で意欲的に学んでいるわけではない。それは映画の外にある事実だ。パンフレットではその事実は隠されていない。

映画に映る彼らはみな、まぶしい。自分の勉強が、未来に繋がっていることを強烈に信じている。それは、今の日本にはない。選択肢の多様さが、活力を奪っている、という面もあるように思う。

学校は嫌いだった。でもこの映画の、喜びを全身から発散する子どもたちの姿を見ると、あらためて、学ぶことは止めないでいようと思う。もう学校に行くことはなくても、図書館へ、書店へ、職場へ、世間へ、学びに出かけよう。馬の代わりの自転車に乗って。

Au revoir et a bientot !

2014年3月21日金曜日

賢者タイムに見る映画―― 『ラヴレース』

マスターベーションを終えた後の醒めた気分で、今楽しんだばかりのAVを見直す。見られたもんじゃねえな。あえぎ声はうるさいし、演技は大げさ、そもそもセックスしてるばかりで、新鮮味もクソもないよね。


なんて思いながらも次の機会には、そのとき感じた気分も忘れて、また勃起し、射精する。悲しいけどコレ、男の性。


映画『ラヴレース』はそんな男たちの欲望に一生を狂わされることになった、リンダ・ラヴレースの実話をもとにした作品だ。DVを振るう夫に強要され、アダルトヴィデオに出演する羽目になった彼女は、出演作『ディープ・スロート』によって、瞬く間にスターの階段を上り詰める。ポルノスターではない、ホンモノのスターだ。でも、ホンモノっていったいなんだろう?


映画はその過程とともに、華やかな人生の裏側、夫の暴力や性的虐待、売春の強要、両親との不仲などを描いている。


時は1970年。奇しくも先日紹介したピンチョンの『LAヴァイス』と同じ時代だ。当時を知らない我々には、時代の雰囲気を味わう一種の資料にもなる。まぁもちろん、現代から見つめなおしているから歪なんだけど。


ぶっちゃけ、主演のアマンダ・セイフライドの可愛さがすべてだよね。たぶん観客の何人かは、あられもない姿態を想像して、興奮して、マスターベーションに走るだろう。それが、この映画の正しい鑑賞法だ。彼女だって、スターになって、満更でもなさそうだろう?


そうなのだ、この作品の上手いところは、彼女の喜びをきちんと描いているところだ。後のポルノヴィデオ反対運動家としてのリンダに焦点を当ててしまうと、どうしてもポルノスターとしての彼女は控えめに描く必要がある。忌まわしく、強要された、忘れ去りたい過去として。


実際にはそうではない。少なくともこの映画ではそうだ。始めは戸惑い、躊躇いがちだったラヴレースも、人々の賞賛と賛辞を得て、だんだんとそのきになっていく。彼女も人の子。もて囃されればその気になる。誰もそのことで攻められまい。


その後の運命と行動は、オナニー後の賢者タイムのようなものだ。後悔甚だしいが、いずれ繰り返すことになる。ラヴレースの強さは、そんな弱さに打ち勝った点だ。だがそこにはほとんど触れられない。なぜって、人は弱いものだから。


過去のことを思っちゃだめだよ。なんであんなことをしたんだろうって、怒りに変わってくるから。未来のことも思っちゃだめ。大丈夫かな、あは~ん。不安になってくるでしょ。ならばあ、今ここを生きていけば、みんな、活き活きするぞ! by 松岡修造


Au revoir et à bientôt !

2014年3月2日日曜日

映画 『さよなら、アドルフ』

ある瞬間まで彼女は、間違いなく加害者側の人間だった。自分でそうと知らなくとも、その特権を享受していた。

多くの日本人がそうであったように、また多くのドイツ人がそうであったように、あるいはまた別の民族がそうであったように、歴史の転換点において人は、自分たちのこれまで依拠してきた価値観が、暴力的に転覆される経験を味わう。自分たちの属する共同体が成してきた行為のツケを、見に覚えがなくとも(だが本当にそうだろうか?)、債務の履行を迫られる。

主人公ローレの父親はナチス親衛隊の高官。そのことが戦時中には、比べ物にならない豊かさをもたらし、戦後には憎しみを生んだ。「ナチス高官の娘」という、自分で選んだわけでないレッテルを貼られ、自らの意思と無関係な運命に晒される。

『さよなら、アドルフ』は全編を通じて重苦しい空気に覆われている。その空気が、見るものにもまとわりつき、しばらくのあいだ付きまとって離れない。まるで煙草の臭いのように。その空気の正体はなんだろう。人類が体から発散している悪の瘴気だろうか?

ローレと幼い妹弟たちとめぐる、祖母の家までの800kmの道のりには、多くの困難が待ち受ける。道中彼女たちに救いの手を差し伸べてくれるのが、青年トーマス、ユダヤ人だ。

ローレの感情・価値観は何度も揺さぶられる。人々の手のひら返し、ナチスが行っていた虐殺の告発、そしてユダヤ人もまた、自分たちと同じような感情や肉体を持つ、一人の人間に過ぎないこと…。これまでに経験したことよりもずっとたくさんのことをその旅を通じて彼女は学び、迷う。

映画を見終わった後、吐き気に襲われた。胃腸が弱いんだろう?たぶん、そうだ。ストレスを感じるといつも、身体の奥からなにかが込み上げてきて、息苦しくなり、もどしそうになる。

でもこれは、サルトルの『嘔気』の主人公、ロカンタンが感じるそれに、いくらか似ている。実存主義のバイブルとされたこの小説は、第二次大戦後、世界中の若者たちに熱狂的に読まれた(仏語出版は1938年)。人間の生そのものに対する問いかけは常に、我々の存在を危うくさせる。

煙草の臭いはいつかは消える。だが、ローレが「ナチス高官の娘」だったという事実は消えない。そして、トーマスが「ユダヤ人」であるということも。レッテルはいつでもどこでも、本人の意思とは裏腹に付きまとう。そしてそれを貼られた本人は、そのことを決して忘れない。たとえ、周りの人々が忘れてしまったとしても。シールをきれいに剥がすのは難しい。

Au revoir et à bientôt !

2014年2月20日木曜日

コーヒーとタバコと共産主義と――映画 『シチリア!シチリア!』

前々回にこのブログでも話したように、自分の生きた時代以外の価値観を認めるのは難しい。その時代に生きていた人々にとっては暗黙の了解とも言うべき「コード」が、別の時代の人にとってはそうではない。「時代の空気」とも呼べるそれは、説明するのがおそらく非常に難しいシロモノだ。

今読んでいるトマス・ピンチョンの『LA ヴァイス』は、70年代初頭、ヒッピー文化未だ盛んなロスを描いた物語だ。今ここでストーリーには触れないが、そうしたコードに恐ろしく意図的な作品である、とだけ言っておこう。

さて、アメリカでヒッピー文化華やかなりし頃、ヨーロッパではそれと対を成すような形で共産主義思想が栄えていた。

当時の知識人といえば、共産主義者であるかそうでないかの二択きりで、「読んだこともない」人間はすなわち、知識階級から外れていることを意味した。まぁ、私の勝手な想像だが。

そんな当時のイタリアを生き生きと描いた映画、『シチリア!シチリア!』を先日DVDで見た。監督はジュゼッペ・トルナトーレ。シチリア島の小さな町、バーリアに生まれたペッピーノの生を、その父と子どもの3代に跨って描く、151分の長編だ。

この映画最大の魅力は、時代の雰囲気を存分に味わえることだ。短く細切れにされた各シーンが、そこで切り取られた時代ごとに、異なる人々の表情や生き方を映し出す。現代を生きるだけでは決して味わうことのできないものを見せてくれる。

この、ひとつひとつのシーンをごく短く切り取り、パッチワークのように継ぎ接ぎする手法が上手くいっているとは思えない。見る人にとってシーンごとのつながりよりも断絶のほうが大きく、なかなか映画にのめり込むことができないのだ。

一方その意図に関しては理解できる。3世代およそ60~70年ほどの期間を描こうと思えば、どうしてもひとつひとつのエピソードを掘り下げるのは難しいし、何より映画監督が、一人の人間の一生を描く、というだけでなく、それに付随した時代、土地の移り変わりをも描写したいと意図しているのだから当然だ。

これはペッピーノの一生を描いた作品というよりは、一人の人間が生きたバーリアという土地と、その上を過ぎていった時代を描いた作品である。土地の記憶を、一人の人間を通して描き出している、と言い換えてもいい。

ところで映画の最後のシーン、冒頭で居眠りしていた少年時代のペッピーノが目覚めると、21世紀のバーリアにいる。ときに記憶は思わぬところで隆起し、他の時代と交じり合う。それがその場面に表されているとしても、そんなのは間違いなく蛇足だ。

Au reovoir et à bientôt !

2014年1月30日木曜日

清清しいまでに下品 映画『アイムソー・エキサイテッド!』

「とびきり下品なネタ満載なので、デートには禁止よ。」
――よしひろまさみちさん(映画ライター)

いやー、それ観る前に言ってほしかったわ。チラシに掲載されてる著名人のコメントを呼んでそう思ったのは、なにも私一人ではないだろう。おかげで見終わった後に気まずい雰囲気満々ですやん。

なんとか名誉挽回しようと映画の名シーンを思い出して会話を盛り上げようとするのだけれど、あら不思議!そんなシーンは思い出す限り1ミリも存在しないじゃありませんか。ってそれ以前にこんな映画にウキウキで彼女を連れて行った男の知性が疑われるよね。

ペドロ・アルモドバル監督の『アイムソー・エキサイテッド!』はそんな映画だ。全編下ネタ満載、ってか下ネタしかない、3人のオカマ添乗員と曲者だらけの乗客たちが織り成す、「ワン・シチュエーション・コメディ」。

「ワン・シチュエーション・コメディ」って単語につられて、傑作『大人のけんか』みたいな作品を想像してしまってはいけない。この映画の出来栄えなんて、語るだけ野暮だろう。考えるんじゃない、感じるんだ。そうすれば君のア○ルがむずむずしてくること請け合いだ(下品で失礼)。

やっぱり歌って踊っているシーンがいい。私は大好きだ。フランソワ・オゾン監督の『8人の女たち』の影響が大きいのかもしれない。3人のオカマの最大の見せ場、特に信心深いぽっちゃりファハスの出番はここだけだ。バナナマンの日村に似た彼の勇姿を、僅か3分程度だが、目に焼き付けたい。
ストーリーには関係ないが、個人的には殺し屋が持っている本が気になった。あれ多分ロベルト・ボラーニョの『2666』だと思うんだけど。この飛行機が向かう先はメキシコ。『2666』の主な舞台である架空の街も、メキシコシティをモデルにしているといわれる。そこで行われる大量殺人事件が物語の骨子にあるのだから、それが彼の職業=殺し屋を暗示しているのも当然だ。

たぶん、癖のある乗客たちのそれぞれには、モデルとなる人物が存在するのだろう。世界的なSM女王、落ち目の俳優、それに未来が見える処女の中年女子(世間に根付いたアラフォー、アラサーなんて中身のない言葉よりも、私はこの語を強く押したい)…。興味のある方は調べてみてはどうだろうか?

ごめん、全然映画の内容に突っ込んでないね。つーか、突っ込むほどの内容があんのか。でも駄作ではない(間違っても傑作ではないけれど)。予告を見て、ウキウキで嫁を誘って行った私の名誉のためにもそう言っておきたい。休みの日になにもすることがなくて、街をぶらぶらしていて、たまたま寄った映画館で、ちょうど上映してたんなら観てみればいいと思う。けっこう笑えるぜ。

ただし、恋人と行ってはいけない。わざわざ危ない橋を渡るのは勇気ではなく、無謀というものだ。一人で行き、下品なネタに笑い、感情を共有している他の観客たちを軽蔑すればいい。他の観客たちも、下ネタで爆笑する君の事を蔑んでいるから。

だがもし、もしも恋人と一緒に行ってしまい、気まずくなるどころか恋人のほうから映画の話題を嬉々として話してくるようであれば、別の心配をするほうがいい。たぶん君の恋人は…バイセクシャルだ!

Au revoir et a bientot !

2013年10月27日日曜日

『そして父になる』って言われても

映画においてわかりやすさは重要だ。

他の芸術では許される言葉による補填が、会話という最低限の形でしか許されない。とりわけ現代アートにおいて言葉の重要性が増すにつれて、映画は、音楽や演劇についで言葉の重要度が(比較的)低い芸術になった。

そうである以上、映画がイメージに頼るのは必然の流れだ。とりわけ、起用されている俳優の社会的イメージがはっきりしている場合、それを利用しない手はない。福山雅治には福山雅治の、リリー・フランキーにはリリー・フフランキーの、メディアが作り上げたイメージ。

各俳優の持つこのイメージを、『そして父になる』は丁寧に、壊れ物を扱うかのように、扱う。各俳優の持つイメージの文脈に従う以上、それぞれが演じる役割は自ずと限定される。福山雅治が貧しいが子沢山で幸福な父親を演じることは、リリー・フランキーが高学歴のエリートな父親を演じるのとと同様、不可能に近い。

映画にわかりやすさは重要だ。それは観客に安心感を与えてくれる。映画の中の登場人物が普段テレビの中でみる俳優のそれと類似・酷似していること。日常との地続きの感覚は、映画を日常の中に位置づけてくれる。

だがその安心感は本来、そこからの離陸、浮遊の感覚を呼び覚ますための大地であるはずだ。日常が瓦解するときに見える世界を垣間見せること。平凡な定義かもしれないがそれが今も、映画を含めた芸術の使命だ。

この映画の題材はまさにそんなところにある。自分の息子が実は全く血の繋がっていない他人の子供だったこと。それは現実に起これば、地面が足元から裂けるような感覚だ。

だが俳優たちの不変性・不動性のもたらす安心感が、パラシュートの役割を果たす。ゆっくりと、安全に観客はすぐ近くの地面に着陸する。登場人物たちが右往左往する素晴らしい景色を足元に見て、身の危険を感じることなく。

わかりやすさは重要だ。だがそこからイメージをずらし、観客に不安を与えるために。だからわかりやすさは映画にとって重要ではあるが、本質ではない。本質はきっと、そこからほんのわずか上下左右、どちらかにずれたところにあるのだろう。心臓が人体の中心から、少し左にずれたところにあるように。

Au revoir et a bientot !

2013年10月21日月曜日

『大統領の料理人』と政治学

極寒の地、南極。地軸の南端に位置する、生物の住まない土地にも人間は暮らしている。

南極のフランス基地に向かう船上でのインタビュー場面で映画は幕を開ける。インタビューに応じているのは、中肉中背、半ば禿げかかった30代の男。この度新しく南極基地の料理人として赴任してきた。一年の任期を終えた前任者と交代するために。

その前任者こそ、元エリゼ宮の料理人。彼女こそが大統領の料理人だ。

南極基地で働く現在から、エリゼ宮での2年間を回顧する。このエピソードって蛇足だよね。人物描写が深まるわけでも、コンポジションによって大統領の料理人としての仕事が際立つわけでもない。

そんな瑣末なことはわきによけて、物語の重心に目を移そう。
フランスの一地方で旅館をしていた女性がある日突然、大統領府に呼ばれ、大統領の料理人となるーーいいよ、別に。そんなこともあるだろうさ。彼女だって、、それなりに名の知れた料理人なんだから。

それでも、彼女の人物像はいただけない。

女性が男性優位の社会で活躍するさまを見るのは爽快だ。周縁が中心を変えていく、トリックスターの働きがそこに顕現するからだ。観客がこの映画に求めているのは、彼女がお堅い大統領府のしきたりを次々と破っていく、そのカタルシスにあるはずなのに、ここには、それがない。

映画内で彼女の勝利はつかの間だ。それもおそらく、宮廷に何がしかの影響を与えるにも至らない。映画が始まってまもなく、彼女は敗退を続ける。料理に使用する材料や金額は制限され、主厨房の協力は得られない。唯一の味方は大統領のみだが、彼もまた本人の力の及ばないところで管理下におかれている。

いまや周りは敵だらけ。そんな状況に置かれた二人が真夜中の厨房で交わす場面は印象的だ。大統領が「逆境だからこそ頑張れる」というのに対し、弱々しく微笑む彼女。やがて彼女は、2年間勤めた仕事を自ら放棄する。

この映画に欠けているのは、自分の主張を押し通すために必要な政治学だ。料理人であれ大統領であれ、自分のやりたいことを成し遂げるためには根回しが欠かせない。それを人は政治と呼ぶんだろう。

もっと大統領の料理人の破天荒さが見たい。追い出されて、泥にまみれても、「絶対に見返してやる」と目を血走らせる活力。この映画にはそんな、絶対的なエネルギー量に欠けている。

「ステレオタイプを恐れないで」そう声を大にして叫びたくなる作品。そんな肩肘張らず、もっと気楽にいこうぜ。

Au revoir et a bientot !


2013年8月24日土曜日

映画 『31年目の夫婦げんか』――1時間40分の超大作缶コーヒーCM

31年も連れ添ってきたんだ、夫婦間に問題があるはずがないだろう?
――そうだな、そう思うしかないよな。

結婚して31年目を迎え、変わり映えのしない毎日を送っていた妻のケイは、もう一度人生に輝きを取り戻そうと、夫のアーノルドを無理やり連れ出し、1週間の滞在型カウンセリングにやってくる。カウンセラーから予想もしなかったさまざまな“宿題”を課されて驚くケイは、次第にため込んでいた感情を吐き出していき、口の重たいアーノルドも本心を打ち明け始めるが……。(『31年目の夫婦げんか』映画案内より引用)

夫婦間の溝に悩む妻と、それに気づかない夫。ありがちな設定を主演のメリル・ストリープトミー・リー・ジョーンズが見事に演じる。陳腐だけどそれだけに、あぁこんな夫婦絶対いるよな、って妙な説得力がある。

夫婦間の溝に沿って問題を語ろう。
男だってもちろん、その存在に気づいている。目をそらしているだけだ。彼はふとそちらのほうを向いて、長年に渡って穿たれた溝の深さを前に唖然とし、自問する。いったいこいつはいつの間にできたんだ、と。そして、そこから目をそらす。

女は違う。その溝に臆面なく立ち向かおうとする。その巨大な間隙を、なんらかのもので埋めようと、飛び越えて距離をなくそうとする。虚無には耐えられない。だが、そうするのは男の役目だ。だってわたし、女の子だもん。

ずるい大人の男と女。両者が溝を隔てて向かい合う。女は声をかけて男を呼ぶが、男にその声は聞こえない。聞こうとしない。女の戯言より、ゴルフのトップフォームを確立することのほうが大切だ。

で、その溝って結局なによ?PVでは失われた夫婦の絆を取り戻す、なんてキレイごとを並べるけれど、それはつまるところ肉体関係の欠如、セックスレスに行き着くのだ。なんて浅い溝!って笑えるうちはまだ夫婦仲のいい証拠だろう。たぶん、当事者たちにとって、かなり、切実だ。

これはセックスレスの中年夫婦が、いかにして再びセックスを始めるかの物語だ。こんな風にまとめるとつまらなさそうに思えるかもしれないが、私は1時間40分、退屈しないで見れた。大筋を追いかけるよりも、時折飛び出してくる細部の欲求不満のエネルギーの表出が好きだ。

カウンセラーに質問されて、自分の性的妄想(オフィスで机の下にもぐりこんで、フェラチオをしてほしい!)を話す主人公や、港近くのカフェで「この中で最近セックスをしてない人?」と聞かれ、沈黙した挙句、指摘されておずおずと手を挙げる脇役が私は好きだ。

それに対して、正直妻の欲求不満は物足りない。オナニーは最近してないし、性的妄想はこれまで考えたこともない。性的にかなりおくてで、これまでオーラルセックスをみたこともきいたことも、もちろんやったこともない。これで若さもなく、、スタイルのよさもなく、魅力もない。同情するぜ、旦那。あんたの欲望は一生宙吊りのままみたいだな。

映画では夫妻が抱えてきた問題を1時間半かけて掘り起こし、10分で解決する。もちろんハッピーエンドが宿命付けられている。すごいな、どうやったんだ?と聞かれても観客の誰も答えられない。駄作だって?そうかもしれない。

じゃあ、こんな案はどうだろう。

結局二人の仲はもとに戻らない。夫婦は離婚する。ハッピーエンドにしたいなら、円満離婚もいいだろう。ある日、元夫がビーチを散策していたとき、元妻がもう一度ビーチで結婚式を挙げたい、と語っていたのを思い出し、感傷に浸る。素晴らしい文句をそのまま使えば、

「この星では、別れなければ出会えない」 缶コーヒーのBOSS、レインボーマウンテン

このろくてでもない、すばらしき世界。

Au revoir et a bientot !


2013年5月18日土曜日

映画『ヒステリア』 今シーズンワースト映画に決定!

恵まれた題材からクソみたいな映画。『ヒステリア』はこんな評こそふさわしい。

舞台は19世紀末のイギリス。第二次産業革命ただ中の英国ヴィクトリア王朝では、性革命も同時に進行していた。

①すぐ泣く ②異常性欲 ③不感症 ④うつ病 などなどさまざまな症状を引き起こす“ ヒステリー ”と呼ばれる女性特有の病気に対抗するのは、真面目で医学の進歩を信じる(おまけに美男の)若き医師グランヴィル。彼が一般病院を追い出され、婦人科の権威ダリンプル医師の診療所に流れ着くところから物語は始まる。

日々マッサージ治療に明けくれるグランヴィルだったが、治療のしすぎで利き腕が使えなくなってしまう。あげく診療所もクビになってしまうのだが…。もちろんここがヴァイブレーターの見せどころだ。

「圧倒的支持率100%」なんて謳い文句につられたわけではないが、正直期待していた。だってヴァイブレーターの歴史だぜ?21世紀、人類はオナニーの道具についてこれだけ大っぴらに話せるようになったんだ。なんて期待していただけに、失望もまた大きい。なんて退屈な映画なんでしょう!

「20~60代女性限定一般試写会アンケート」なるものを行ったらしいが、それによると「この映画の感想は?」の質問には「非常に素晴らしかった」が38%、「大変良かった」が62%で満足度100%、更に「この映画に共感できた?」の問いには「Yes」が100%だったという。ウソだろ、おい。
おそらく、答えの選択肢が前者は「非常に素晴らしかった」と「大変良かった」の二択、後者は「Yes」しかなかったのだろうと推測される。

はっきりいって、これは女性蔑視の物語だ。この映画の監督は女性のようだが、19世紀の男性優位主義者が作ったといわれても納得の出来栄えだ。登場人物(とりわけ女性)に個性はなく、ただお決まりの枠にはめられている。ヒロインは女性の権利活動家でかつ慈善事業家だが、事業の金銭面では全面的に父親に依存している。父の行う画期的なマッサージ療法を毛嫌いしているにも関わらず。彼女の慈善事業は自分ではお金を稼いだことも働いたこともないお嬢様のオママゴトにしか見えない。

まったく魅力のないヒロイン、シャルロットに突如心奪われる主人公も謎だ。二人が抱き合うラストシーンはもはや、喜劇を通り越して悲劇的だ。妹のエミリーはどうしたよ、ええ?

この映画のなにがひどいって、結局ここだろう。妹エミリーとの恋愛を、姉シャルロットの引き立てる道具にする安直さ。お互い好き合っていた二人の関係をまるで、父親によって強いられていたかのように扱う態度。

映画の中ほどで主人公グランヴィルと妹エミリーが婚約の言葉を交わす。その際のぎこちなさはお互い本心を隠して建前ばかり(「父のため」「診療所を継ぐため」)を述べていたからで、決してお互い嫌いだったわけではない。むしろ好きなんだろ?それが言えなくてもどかしいんだろ、と観客は思う。なのにラスト手前では、妹エミリーは突然、「自分の本当の気持ちに気付いた。私は父のいいなりになってきただけ」と言って、グランヴィルとの関係に終止符を打つ。いやいや、ちゃうやろ。

確かに父の期待に添うように、とは思っていた。でもそんなことを抜きにしてあなたのことが好きなの、って展開が自然というものだ。そして姉シャルロットもまた、自分のことを擁護し、援助してくれるグランヴィルに惹かれ始める。

今や若くして金持ちで、顔も心も男前、加えて医師の本分を忘れないパーフェクト超人と化したグランヴィルをめぐって、姉と妹の骨肉の争いが繰り広げられる。その背景に自立した女性としての二人の姿をチラ見せする、といったところで幕を閉じるのがベストな結末だったろう。

もういいよ、期待した私がバカだった。こんな映画を見るよりは、橋本市長の従軍慰安婦発言を真面目に考えるほうが有益だ。さあみんな、戦争責任についてアメリカの野郎と話そうぜ。

Au revoir et à bientôt !
これはあかんでぇ。つーか、せっかく良い題材なのにもったいない。

2013年4月28日日曜日

Kamikaze 精神を継承する原理主義者たち

「神は死んだ」 と19世紀にニーチェはいった。「もし神が存在しないのなら創り出さねばならない」 と18世紀にヴォルテールはいった。現在は21世紀、神の実在は未だ実証されていない。神は本当に存在するのか?いるとして神は必要なのか?

日本では「自爆テロ」と呼ばれる行為は、海外では "kamikaze" と一般に呼ばれている。もちろん語源は日本語の「神風」にある。

第二次大戦中の「神風特攻隊」がその元となっているのは言うまでもないが、さらに遡るならば、そもそもその特別攻撃隊の名称が、元寇を追い払った暴風雨に端を発していることぐらい、日本人なら容易に理解できるだろう。

だからといってその精神性まで理解できるわけではない。太平洋戦争末期に採用されたその決死攻撃が、それだけで戦況を覆すことができる決定打となるはずもないことは、いかに愛国的軍国主義者であろうとも、容易に想像できただろう。

もし事実、二度の元寇の時と同様に、連合軍を壊滅させる働きを期待されて名付けられたとすれば、決死攻撃の結果ではなく、特攻隊員たちを供犠にして、神風が吹くのを、つまるところ奇跡が起こるのを祈っていた、とするのが適当ではないだろうか。

言葉には不思議なところがあって、意味を正しく理解せぬまま輸出・輸入された語が、母語とは異なる環境下で変質を遂げて、むしろその後の本質を表す、といったことがある。

kamikaze もまた、そうした語のひとつなのだろうか。

神風特攻隊の狂気じみた精神ゆえに、世界的に自爆テロを指すものとして認知されるようになったこの言葉は、それを唆す主導者たちの、ねじ曲がった祈りの用語となった。

それは現実的でない変革を訴えて人身御供を捧げ、「神」の威力に期待する、非現実的な原理主義者たちの祈祷の言葉だ。

さて、最初の問いに対して、2009年全米No1 ヒット、94% の観客の共感を得たという映画のタイトルをもじってこう答えよう。

「そんな神なら棄てちゃえば?」
 
Au revoir et à bientôt !
 

2013年4月27日土曜日

映画『L'Écume des jours』 4/24 フランス公開

Boris Vian / ボリス・ヴィアン。死後54年を経た今も、君はスーパースターだ。

4/24、フランスで  Michel Gondry 監督の"L'Écume des jours " が公開された。

初日の入りは47000人と予想より少なかったようだ。期待値が高いだけに、裏切られたときの失望感は大きい。まさに「期待はずれ」の一作。今のところそんな烙印が押されているようだ。

なにしろ、キャスティングがすごい。主役の二人が『スパニッシュ・アパートメント』の Romain Duris / ロマン・デュリスと、日本で一番有名なフランス人女優、Audrey Tautou / オドレイ・トトゥ。更には『最強の二人』の Omar Sy / オマール・シーも登場とあっては、期待しないほうが無理というもの。私だってそりゃ見たいさ。

映画の公開に合わせて書籍の売り上げも好調なようだ。

livre de poche 版(日本の文庫本)の"L'Ecume des jours / うたかたの日々" が今週のベストセラーにランクイン。小出版社 Saints-Peres からは直筆原稿版が発売された。さまざまな神話的生物の落書きで埋め尽くされた、シュルレアリスム的想像力に溢れたこの豪華本は、1000部が瞬く間に売り切れた。

肝心の内容にも触れておこう。

「原題でもっとも悲痛な恋愛小説」と銘打たれたこの本の面白さは、その詩的で幻想的な世界観によるところが大きい。青年コランと少女クロエの恋愛を軸に、カクテルピアノやハツカネズミが舞い踊る。肺の中で睡蓮が生長する病気に冒されたヒロインなんて、この小説でしかお目にかかれない。

余談だが、この作品の日本語訳はどれもひどい代物で、とてもじゃないがまともには読めない。私が購入した当時は、新潮文庫版の『日々の泡』と早川epi 文庫版『うたかたの日々』が存在した。現在所持しているのは後者だが、まあひどい。たとえば、次のような会話――
「それでは、また仕事にかかってもよろしゅうございましょうか、旦那様」(ニコラ)
「いいとも、ニコラどうぞ」
言葉が古いのは目をつぶるにしても、「いいとも、ニコラどうぞ」はないだろう。最初のセリフを喋ってるのがニコラだということを考えれば、滑稽さは倍増する。普通に考えてもここは、「ああ、よろしく」ぐらいが妥当なところだろう。
現在は光文社文庫から野崎歓訳が出ている。中身は確認していないが、野崎さんの翻訳なら間違いないと思うので、読みたい人はこれがオススメ。

まぁともかく、日本公開が未定な以上、とりあえず読んでみるしかないだろう。もちろん私は挫折した(なぜ昔は読みとおせたのか不思議だ)が、それはそれ、これはこれだ。ボリス・ヴィアンの息子、パトリックの証言を最後に引用してお別れだ。

「『うたかたの日々』は初版5000部が印刷されたんだ。1000部はなんとか売れて、友人にもたくさん配った。残りは?全部スクラップさ」

Au revoir et à bientôt !
 
なるほど、この翻訳ならスクラップされるのも頷けるぜ。



2013年4月26日金曜日

映画『天使の分け前』――僕らは落ちこぼれに嫉妬する

映画がはじまってすぐに、見る人が覚えるのは安堵感、もしくは優越感だ。

スコットランドの一地方都市で行われる裁判。そこで人生の落ちこぼれたちが次々に裁かれる。盗みをしたもの、他人を傷つけたもの、迷惑行為…理由はさまざまだ。

スコッチウイスキーの故郷スコットランド。育った環境のせいでケンカ沙汰の絶えない若き父親ロビーは、刑務所送りの代わりに社会奉仕活動を命じられる。そこで出会ったのが指導者でありウイスキー愛好家であるハリーと、3人の仲間たち。ハリーにウイスキーの奥深さを教わったロビーは、これまで眠っていた“テイスティング”の才能に目覚め始める。ある日、オークションに100万ポンドもする樽入りの超高級ウイスキーが出品されることを耳にしたロビーは、人生の大逆転を賭け、仲間たちと一世一代の大勝負に出る!

これはどこか遠い世界の出来事だろうか?ある人々にとっては、そうだ。異国の地であることも相まって、彼らが自分たちの住んでいる世界とは違う位相の住人だとし、自分たちの優位を認め、優越感に浸ることができる人々。

あるいは彼らの中に自分たちの隣人、もしくはあり得たかもしれない自分の姿を見る人たちもいるたった一度の失敗が人を傷つけ、人生をダメにしてしまうこともある、と知っている彼らはそれゆえ、主人公たちに対し、ある種の寛大さを持って見ることができる。そしてもちろん、安堵も。

しかし物語が進むにつれ、その安堵と優越は少しづつ崩される。才能という、共感の余地なき要素が、物語の重要な位置を占め、歯車を回していく。

更生の道を歩み始めた主人公を応援していたはずが、いつの間にか彼の決断と行動に不満を抱き、同意できない気持ちがつのる。

その気持ち、たぶん嫉妬だ。

平凡さに囲まれていると、決して手にすることのできない(ような気がする)センスと、それを活かしてくれる周囲の大人たち。好転する運命の輪に彼の社会から落ちこぼれた、その境遇さえも特権的に思えてくる。

だが思い出してほしい。その才能と理解ある周囲の大人たち、それに今後の人生を棒に振るリスクを負ってまで主人公のロビーが求めたものを。それは、お金と、家族と、仕事がある、安定した普通の生活。一世一代の大勝負の掛け金は未来、そして得られたものは一人当たり25000ポンド(約380万円)の現金。天から降ってきたのなら大金だが、未来を賭けるにはいかにも少ない。そのお金と僥倖と才能をもってしても、育った環境から脱するのに精いっぱいだ、ともいえる。

結局これは、人生の平凡さを賛美する映画だ。監督のケン・ローチは、現在の若者が直面する問題を正面に据えながら、その先に人生の平凡さと愛おしさを透かし見せる。

Vive la banalité ! / 平凡万歳!
 
Au revoir et à bientôt !
 
映画『天使の分け前』公式サイト:http://tenshi-wakemae.jp/

2013年1月7日月曜日

映画『最強のふたり』

そこにあるのは「最強の」エンターテイメントと、「最強の」予定調和。『最強のふたり(原題:
Intouchables )』はまさしくそんな映画だ。

全身不随の白人大富豪と、パリ郊外のスラムに住む貧しい黒人。クラシックとソウル、文学とBD。ありとあらゆる定型句的な対立を持ち込んで、これまたありきたりな融合へと昇華させる。この様式美。なるほど、フランス映画なのに全世界で見られる理由がよくわかる。

かといって、それを否定するつもりはない。反対に映画館では大いに楽しんだ。いいね、予定調和、いいじゃんベタな人物像。

ただ惜しむらくは毒が足りない。それは実話をもとにしたこの映画の、実話の側には欠けることのなかった要素だ。

映画終了後のクレジットロールに少しだけ登場する実話の二人は、ヨーロッパ系とアラブ系に見えたのだが、どうだろうか?(実際に確認したところ、それぞれ、Philippe Pozzo di Borgo は父がコルシカ島出身のイタリア系フランス人、Abdel Yasmin Sellou はアラブ系だ)。

つまりこれは、本来ならキリスト教とイスラム教の対比であり、その結果としての融和の物語であり得たのである。それが黒人と白人、貧者と富者のありふれた対比に変えられてしまった(もちろんだからといって、この二つが重要でない、というわけではない)。実にもったいない話ではないか(※)。

確かにこれはデリケートで、現在進行形の問題である。一応は過去のものとなった、帝国主義時代の宗主国と植民地の関係でさえ、フランスにおいて今なお解決されているとは言い難い(日本が同様にそうであるように)。

だからこそ、そうした問題を正面から取り上げることは非常に価値のある事だったろう。

今の時代、「白黒はっきりした」わかりやすい作品しか大衆受けしないのだろうか。そんなことはないだろう。グレーな、もっといえば黄色がかったゾーンを悠然と闊歩し、なおかつ有意義な結論に達する作品が見たい、そう思う人も決して少なくはないだろう。

あるいはそんな要求をすること自体、「アンタッチャブル」な領域なのだろうか?

Au revoir et à bientôt !
『最強のふたり』のトレーラー。うーん、ベタやなぁ。
 
※後に確認したところ、ドリスの本名イドリース自体、アラブ系のよう。つまり、イスラム的要素は決してなくなっているわけではない。


2012年9月16日日曜日

祈り

おはようございます。

祈ることは難しい。ことに私のような無神論者にとって。

もちろん私のそれは、神を失った西洋の激烈で選択的なそれとは異なり、日本式の折衷的な、結果としてのものではある。

それでも、神社で手を合わせて拝む、あるいは願をかけることすら面映ゆいし、結婚式を教会で、もしくは神道によってあげるなど、もってのほかだ。

あくまで「祈る」ことに限定するのなら、その対象は宗教でなくてもよいはずだ。

だいぶ前に(私の記録では6/26 )に映画、『星の旅人たち』を観た。

息子の遺志を継いで800km におよぶ巡礼の旅に出る主人公。その旅は必然的に、祈りに関する物語になる。

「祈る」ことは、自分には無縁だと思っていたけれど、それが他者に自分を預け、自分も他人の重みを担うことだとすれば、神に対するそれは、あくまで対象が形而上的であるに過ぎず、形而下のの存在である人間同士で交わされる信頼関係こそが、すなわち祈りそのものであって、そうであればこそ、「宗教は信仰と関係ないさ」という、神父の言葉が重みを持ち得、また、私のような人間が祈ることも可能なのだ、と気付かされる。

故人の冥福を祈る――この形ならば多少本来の意味からそれようとも、それに相応しい表情と心情を自分にも望むことができるのではないか。なぜならそれは、故人とのあいだに巡らされていた信頼関係の復元なのだから。

と、9・11から11年が過ぎた今に思う。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
『星の旅人たち』予告 YouTube より

2012年7月15日日曜日

投げ出したところからやり直す

おはようございます。

先日、といっても先月末の話ですが、映画 『星の旅人たち』 を見てきました。

内容に関しては、巡礼の旅を描いたもの、とだけ言っておくとして、これを見て感じたことが二つ。

ひとつは、
「人は自分の人生を選ぶことはできない。ただ、生きるだけだ」
という登場人物のセリフ。もうひとつは 「祈り」 について。

――今回は前者について話したいと思います。

といっても、このセリフについて付け足すようなことが特別あるわけではなく、私が強い共感を抱いたって、それだけの話なんです。

それというのも、この映画を見た数日後、職場で異動の話があって、私が今年新しくできたところに行くことになったのです。

その仕事内容というのが、昨年まで勤めていた職場でやっていたものとほぼ同じ、ついでに言えば施設の形態も、役職も、その報酬もほぼ同じ。加えてその話があったのがちょうど、その前の職場を辞めた日とくれば、なんかしら天の配剤とやらが働いていると感じるのも不自然ではないでしょう。

この一年、いわゆるヒラの職でやってきて、やりがいは大してないけれど、責任も同様にない立場で、実に気楽に仕事をして、定時に帰っては仕事以外の人生を存分に楽しんでいたのですが、どうやらそんな生活にも終止符が打たれそうな予感です。

なるほど、人間にはあらかじめ与えられた「命」があって、それをやらずにはいられないようになっている、そんな気にさせられた出来事でした。

それを運命と呼ぶか宿命と呼ぶか、はたまた天命と呼ぶべきかは、今の私には測りかねているのですが。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!

2012年6月9日土曜日

活字中毒かもしれない

おはようございます。

クロード・シモンに代表される、視覚小説が好きだといっても、すなわち映像が好きということにはならず、むしろ嫌いだといってもいい。

けれど現代はまさに映像の時代で、今さらYouTube などをとりあげるまでもなく、「動画」って言葉自体、ここ数年に作られたという事実を指摘することすら、いくらか滑稽です。

そんな私なのに、どうも今年に入って映画を見る機会が格段に増えました。

これはいよいよ映像の前に膝をついたか、と思わせる出来事ですが、いろいろと考えてみるに、どうもそうらしくない。

なにしろ、字幕を見に映画館に通っているようなものですから。

耳から入る未知の言語と、画面下に書かれた日本語との音のギャップ。耳から入る音と、脳内で再生される音の相違はむしろ、目で見た文字の再生能力の強さを再発見させてくれる。

あるいは、英語やフランス語といった既知の言語との出会い。そこでは耳にした語と字幕、それに自らが翻訳した意味の三者が三様に脳内で入り乱れて、気が付けば別の場面に移っている、なんてこともしばしばです。

要は文字が、言葉が好きなんですね。夢に見るほどに。

夢の中でも本を読んでいる、より正確には活字になった夢を読んでいる、まさに活字中毒者にとって夢のような世界ですね。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!

2012年4月4日水曜日

映画 『シェイム SHAME』

―― À une amie cinéphile
おはようございます。

映画 『シェイム SHAME』 を観てきました。そんなわけでまずは、この動画をご覧ください。


「セックスを隠れ蓑に、男がひた隠しにする本当のシェイムとは…」

とまあ、こんなことを言われたら当然、「本当のシェイム」探しをしながら映画を見る羽目になってしまうでしょう。そして、見事に肩透かしをくらう。気になってネット上でGoogle検索「シェイム ネタばれ」 、いくつかヒットするもどれもイマイチ釈然としない。
となると、私も新たな解釈を付け加えて、今後観る人を混乱に陥れる一助を買ってもいいじゃない、ということでこの文章を書いているわけです。
また、この文章は私一人の解釈だけでなく、映画狂の友人の意見を多分に取り入れています。友人に感謝。ありがとう。

まだ観ていない人へ。この映画を本当に楽しみたいと思うのなら、「本当のシェイム」探しをしながら観るのはもったいないと思います。純粋にセックス依存症の男を描く作品として観るのが一番面白い。

*ここからネタばれ。内容について書きますので、観てない方は注意を。

まず家に何度もかかって来る電話。最初は関係を持った女性かと思いましたが、どうも母親らしい(根拠らしい根拠はない。妹と同じ表現「私よ」を使っていることからの推測。これがアイルランドなまりだったりするのかな)。で、主人公は会うことはおろか、話すことさえ拒んでいる。

それから妹の登場。電車を待つシーンなど、如何にも恋人同士の雰囲気であり、どうも兄と妹の近親相姦関係を暗示しているのですが、これは観客のミスリーディングを誘っているのではないか。理由は、過去にそのような関係があったとして、主人公の抱えているような闇の原因としては如何にも弱いこと、また今現在二人のあいだで近親相姦関係があったとして、別にそれを非難する謂われがなにもないこと、です。
しかし、二人のあいだに性的ほのめかしがあることは間違いない。

で、妹が兄の上司と性的関係を持つシーン。妹は兄のベッドで上司と交わり、兄は隣の部屋の隅でうずくまり、うろうろし、そして部屋を出る。そして少し後で出てくる「あなたには私と変態の上司しかいないのよ」というセリフ。なぜここは、「あなたには私しかいないのよ」ではないのか、が問題になると思います。また、「既婚」に対するいくつかの暗示。

ここで暗示されているのは、唯一映画内で一度も登場、言及されることのない「父親」の存在でしょう。そして上司は権威との関係で父親と等記号で結ばれる。

つまり、この状況が昔にも、家庭内で行われていた、父と妹の近親相姦、それを見ている兄、という構造。
で、これでもまだ「本当のシェイム」と呼ぶには弱いと思うのです。それだけなら「トラウマ」とは言えるでしょうが、「シェイム」ではない。

そういうわけでもう一点。主人公はそんな父親を模倣しようとしている節が伺えます。それは、高層ビルの窓にセックスをしている男女を見たあと、自分でも試み、実際に行うところ。あるいは父親のドンジュアン的性質を受け継ごうとしている点。

ここから、主人公は父親の立場になりたい=妹とのセックスを望んでいる、そんな自分を嫌悪している、という解釈が成り立ちます。

上述したような家庭環境にあり、妹と二人アイルランドからアメリカに移民してきた。妹はその過去のトラウマのせいか、頻繁にリストカットを行い、恋愛中毒になり、兄に依存する。ただしそこに恋愛感情はない。そんなことは考えられない。そんな妹を愛してしまう兄…。

とまあ、こんな解釈なら「本当のシェイム」として主人公が葛藤するのも納得できるのではないでしょうか?もっとも推測の部分が多く、確定はできません。そういう風に考えさせる映画になってます。これを見られた方、他にも面白い解釈がありましたら教えてください。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
 

2012年1月27日金曜日

「ダブル」と変身願望

おはようございます。10日ぶりの更新です。

もう二週間前のことですが、ある映画を見てきました。
『デビルズ・ダブル』。サダム・フセインの息子ウダイとその影武者にさせられた男、主演のドミニク・クーパーの一人二役が実にハマっている作品です。

そう、今回はタイトル通り、「ダブル」なお話です。

この主題、文学では古くから大いに使われてきたもので、私としてはこの文章を書く前に、思いついた二冊の「ダブル」関係の本を読もうと思ったわけです。まあそれが理由で更新が遅れたと思ってもらえれば…。
その二冊とは、スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』、ドストエフスキーの『二重人格』です。

この二作、テーマが共にダブル=二重人格なのは疑いを入れないところですが、題材の扱い方が実に対照的。一方は品行方正なイギリス人紳士の影の面、もう一方は冴えない中年男の、これまた冴えない理想像。

この二つを同時期に読むと、ドストエフスキーの文章の冗漫さが改めて浮き彫りになります。というより、この作品はゴーゴリの模倣著しく(ほとんど『鼻』そのものと言ってもいいでしょう)、とても一人の立派な作者の作品とは言えません。

それはまぁそれとして、この二作には共通点もあります。それは、「当人の満たされなかった影の一面がもう一人(一方)の人格を形成する」という、「ダブル」のテーマには必要不可欠な要素です。
つまるところ、これは変身譚の一種だということができるでしょう。

対して映画『デビルズ・ダブル』のほうは、この法則を上手く崩していると言えるでしょう。
影武者を必要とするウダイは、すべてを己の望むがままにできる欲望の権化、欲求不満の影がない男です。
対する主人公は、そんな男に対し、一瞬だけ心惹かれるように見えるも、ついには最後まで自分自身であり続ける、意志の人間です。

有り体に言えば、自分に忠実すぎる二人の男の相克の物語なのです。

このダブル=変身願望という構図を見事に裏返している、この映画とそれを巡る思考は実に刺激的な経験となりました。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
ダブルに必須な道具と言えば鏡ですね。映画でも小説でも印象的な場面で使用されています。