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2014年3月19日水曜日

雨に濡れた土の匂い

出川哲郎の持ちネタのひとつに、「切れたナイフ」ってのがあるじゃん?他の芸人たちに散々弄られたあげく、たまりかねたように昔の呼称を持ち出して、「オレはなぁ、昔切れたナイフって言われてたんだよ!」ってやつ。どんな意味やねんと周りから突っ込まれ、本人も満足げに笑っている。あれ、こんなんだっけ?

テレビでこの場面を見るたび、大江健三郎の小説で出てきた「ナイフ / naif」を思い出す。どの小説だったか、忘れてしまったけれど。日本では「ナイーブ」と表現する人間を、「ナイフな」奴と高校生同士、原語の発音に忠実にありながら評するという、作中の挿話のひとつだ。

日本で「ナイーブ」といえば、素朴さや純粋さを表し、やや肯定的に捉えられることが多い。この意味合いは、フランス語では古風であり、現在ではほとんど使われない。naif の今現在の意味は「お人よしの、馬鹿正直な」ってところだ。

そう考えたとき、「切れたナイフ」って呼称は面白いよね。だって「ついに馬鹿が怒ったぞ」といわれてるようなもんじゃん。まさにそのままの状況。赤いものを見て「赤いぞ!」といったにもかかわらず、「意味がわからない」と否定する周囲と、それを受容してニタニタ笑うだけの本人。そこはかとなく哀れみを感じてしまう。

まあそれはさておき、今日の本題。Isaac Bashevis Singer / アイザック・バシェヴィス・シンガー『Gimpel le naif』 をフランス語で読んだ。あとで調べたところ、日本語訳も存在し、タイトルは「バカのギンペル」と訳されていることが多いようだ。発音しずらい名前だが、これでも1978年のノーベル文学賞受賞者だ。

最近ユダヤの作家を集中的に読んでいるのだが(以前に紹介したAmos Oz もその一人)、この人にはある意味裏切られた。なんつーか、ヨーロッパの匂いが強いのだ。それも、中央ヨーロッパの匂い、ドストエフスキー的に言うならスラブの匂いといえばいいか。

それもそのはず、生まれは1904年ポーランド。1935年には兄を追って渡米。その後1943年に米国籍を取得し、1991年マイアミで死去している。シオニズムとは距離を置き、母語であるイディッシュ語を使って、イディッシュ民話に深く関係した物語を書き続けた。1978年のノーベル文学賞受賞は、もちろん、イディッシュ語の作者としては初だった。

イディッシュ語は高地ドイツ語のひとつ、一方言とされ、標準ドイツ語にヘブライ語やスラブ語を交えたものらしい。「イディッシュ」とは「ユダヤ語」の意味であり、それはそのまま使用者の帰属先も示す。

文学的内容は、ヘブライ語で書く後世のユダヤ作家、Amos Oz Aharon Appelfeld よりも、同時代の中央ヨーロッパの作家たちにはるかに近しい。ボフミル・フラバル(1914-1997)やヤロスラフ・ハシェク(1883-1923)などは、民族的背景は異なりながらも、同じような土台がある。それは民衆に根ざしていること、「因果応報」だとか、「信じるものは救われる」とかいった、上から押し付けられた規範に捉われない理不尽さと、性的開放感が作中に充溢する。それは、雨に濡れた土の匂いだ。

もちろん、このあたりの作家と比較する以上、同じように中央ヨーロッパに生を受けたユダヤの作家、フランツ・カフカ(1888-1924)と比較しないわけにはいかないだろう。だがそれは、また別の話。

全然関係ないけど、飲料水「evian」を反対から読むと「naive」。そんなとこから、気取って水を買うような人間のことを「ナイーブな(バカな)やつだなぁ」と嘲るのも、フランス人の一種の楽しみだ、ということにしておこう。

まったくまとまりのない文章だが、今日はここまで。
Au revoir et a bientot !


2014年3月9日日曜日

アフリカ文学の父と小説の力

相も変わらず光文社古典新訳文庫が熱い。

このブログを読んでくださっている方はご存知だと思うが、最近はこのシリーズの紹介ばかりだ。本の売れないこの時代に、これだけ海外文学を、それも大手出版社が扱わないマイナー文学を、それも文庫で出す勇気と気概。こんなシリーズはほかにはない。年々価格設定が上がって、今や1冊¥1000 以上が当たり前になって、高校生が手を出しにくい値段になっていることはとりあえず、置いておこう。

アチェベ『崩れゆく絆』は、帯文にもあるように、アフリカ文学の傑作とされている。発表されたのは1958年。アフリカの年といわれ、数多くの国家がヨーロッパの植民地支配から脱した1960年に遡ること2年。当然、同作はアフリカ独立期の象徴的な一冊として読まれた。

解説にもあるように、この小説は三部構成から成る(この解説がなかなか優れている)。主人公オコンクウォとその家族を中心に、ウムオフィア村の生活と文化や慣習が詳細に語られる第一部、その最後で偶然起こった事故によって、7年の流刑生活を余儀なくされた彼を描いた第二部、そして第三部では故郷に戻ったオコンクウォが、侵入してきた白人とそれに伴う社会の変化に直面し、対決する。

第一部から二部、三部と移るにつれて、語りは直線的になり、物語は加速する。それとともに空間も広がっていき、最終的には植民地全体を俯瞰する視点となって終わりを迎える。

アチェベがこのような傑作を書き得たのは、また「アフリカ文学の父」と呼ばれ、以降の文学に多大な影響を及ぼしたのは、ひとえに彼自身の持つ二重性によるだろう。

彼の立場を作中人物で表すならば、主人公オコンクウォの息子ンウォイエになる。村の伝統や風俗になじめなかった彼は、白人のもたらしたキリスト教に傾倒し、やがて村からも自分の家族からも離れることになる。アチェベは、そうして最初に西欧化した人々の孫の世代にあたる。

キリスト教文化に染まった社会に生まれ、教育を受ける。そこから、自らの祖先の文化を見つめなおす。これまでのヨーロッパのアフリカ理解がひどく一面的であり、強制的なものであることを暴きだすために。放蕩息子の自分を意識しながら、祖先の地への帰還を果たすことは、おそらくわれわれが想像する以上に難しい。だからこそ、それに成功したこの作品が、世界文学の中でも燦然と輝く傑作となっているのだ。

この作品の発表当時、アフリカ、あるいは世界は時代の転換点にあった。植民地支配からの独立とはいえ、そもそも「国家」なる概念自体がない土地で、それもよそ者が引いた境界線に則って、どうしてまとまったひとつの国ができるだろう。事実その後もアフリカはクーデターや政治の腐敗、混沌と混乱を繰り返す。

そんな時代のさなか、新たな時代を想像 / 創造するに最もふさわしいものとして、アチェベは小説というジャンルを選んだ。21世紀も10年以上が過ぎた現在もまだ、小説はそれだけの力を秘めているだろうか?

Au revoir et à bientôt !


2014年2月15日土曜日

言葉を越える――『延安』

「越境文学」なるジャンルが好きだ。

この語の定義を明確にしようとするとじゃあそもそも日本文学ってなによ、って話になってしまうので今は便宜上「自分の母語以外の言葉で語りながらも、母語を忘れないこと」を条件としておこう。

リービ英雄はその代表的な存在だ(もちろん日本国内外に他にもたくさん越境文学者は存在するが、今回は触れない)。アメリカで生まれ、多感な青年期に大江健三郎や安部公房を読んで過ごし、『星条旗の聞こえない部屋』で日本の文壇(古い!)にデビューし、現在も主に日本語で作品を発表し続けている作家だ。

『延安』は彼が北京オリンピックの少し前に現代中国を訪れた話だ。英語を母語とし、日本語で書く作家が、中国語主に話される大陸を旅する。彼は北京語はある程度マスターしているが、それでも延安で聞く言葉はまた別の方言だ。彼は通訳を連れ旅をするが、時に言葉は彼のなかで本来の意味を成さぬままに変容し、あるときはとどまり、またあるときは通り過ぎていく。

彼の本を読むたびに感じるのは、言葉への(無意識の)信頼と、その脆さだ。言葉を使うこと、聞くことにひどく意識的にならざるを得ないのだ。英語、日本語、北京語、延安地方方言とのあいだにそれぞれ存在するズレが、われわれが普段使っている言葉と事物のあいだにあるズレを露わにする。

たとえば「イヌ」と聞いた場合に、様々な処理が脳内で行われているのがわかる。イヌ→居ぬ?、イヌ→犬→イメージ化…。そこに母語への翻訳作業が加わる(→dog)が加わると更に困難となる。そしてもし、翻訳先が見つからなかったら?あるいはそもそも音が意味を形成しないとしたら?

普段なにげなく跳び越えている溝を、リービ英雄は日の光の下に曝け出し、見せつける。ときに人はそこに嵌まり、迷い、困惑する。そのときに気づくのだ、これまで言葉に寄せていた信頼はひどく根拠のないものではなかったか?と。

かくて人は言葉への信頼を失い、あげくは物それ自体への認識をも疑うことになる。世界は千々にくだけて、名付けようもないものに変わってしまう。

実際そうならずに済んでいるのは、ひとつに常識の鈍さがある。それが、ときに揺り動く言葉の大地を事物に繋ぎ止める錨の役目を果たしているのだ。

揺らぐ言葉の大地の上で、今日もぼくらは安穏と過ごす。越境文学者は大地の裂け目から深く海中に潜り、水底に沈んだ錨を揺さぶる。一見無謀で無益な試みにどう応えるか、それはいつもぼくら次第だ。

Au revoir et a bientot !
フランスとスペイン国境の町。名前は知らない

2014年1月29日水曜日

すべての傑作は特殊な例外である

かつて風景画は絵画の位階において一番低いところに位置していた。

美術史を開くと決まって用いられるこのロジックに、最初は無批判に納得し、首肯していた。そうして、レンブラントやターナー、マネと印象派の革新性と時代を切り開いた努力に感心させられていた。だが、ふと、あるとき立ち止まって考えてみる、「本当にそうなのだろうか?」と。

一等高い位置に宗教画があり、その下に歴史画や人物画、さらにその下にはごたまぜに、静物画や風俗画と一緒に風景画がある――おそらくそれは正しいのだろう。だが、その仮定を受け入れたときに、ひとつの矛盾が生じる。なぜクロード・ロランは17世紀当時、歴史画の体裁をとりながらもその実ほとんど風景画といえる絵を描き続けながら、かくも絶大な人気を誇り、あまつさえ多大な贋作を生み出すに至ったのか?

安易に答えを出すことはできない。なぜならそれは、クロード・ロランの描いた作品の魅力を語ることと同義だからだ。同じく時代は下るが同時代から受け入れられ、賞賛されたイギリスの画家、ターナーの展示会に行って、その感を強くした。時代を超える作品の多くは、その当時の社会の要求を超えたところに存在するのだ、と。

ジョン・バージャーの『イメージ 視覚とメディア』(ちくま学芸文庫)は、硬直した絵画の見方を一変させるだけの力を持った力作だ。以下にごく簡単に要約してみよう。

画家にある物をキャンバスに描かせるということは、と彼は語る、それを買い、家のなかに配置することに近い行為といえるだろう。物を描いた絵を買うことは、その絵があらわす物の外観を買うことでもある。

見ることによって所有することを可能にした芸術形式、それこそが油絵であり、多くの凡作に過ぎない油絵はただ、市場の要求にしたがって、ただ金で買えるものを示したに過ぎない。要は油絵とは、貨幣の変種といえるのだ。

後世から観るわれわれに、そのことは見えずらい。なぜなら、後世に残っているものはほとんどが傑作であるからだ。だが忘れてはいけないことがある、すべての傑作は特殊な例外である。傑作が時代の欲求と外れたところにある以上、それらを時代jを追ってつなぎ合わせたところで、当時の社会がよみがえるはずがない。

とりわけ、風景画においてそうだ。伝統的な絵画の位階において、確かに風景画は低い位置ににあった。だが風景画ほど自立的な絵画行為はなく、それゆえ最初の独創力はいつも、風景画から起こったのである。同時代と後世の評価が交錯するクロード・ロランやターナーといった画家は、まさに「幸福な例外」と呼べるのだろう。

Au revoir et à bientôt !
神戸のターナー展にて

2014年1月13日月曜日

『マネー・ボール』片手に球場入り

「流行りモノだから」読まない、聞かないって態度は、自分の関心と流行を作り出すメインストリームとの距離がしっかり掴めている限りにおいて、役に立つ。

人生の限られた時間のなかで、自分の好きなものを追うだけでも十分でないのだから、まずは「捨てる」ことが優先される。大多数のものを切り捨てた後に初めて、自分が関心のある分野にどっぷりと浸かり、なにを読むか吟味する。正しい判断だ。

ときに自分の関心の先が流行りモノに向いていることがあるだろう。そんなときはよく考えてみたほうがいい。「流行りモノだから」といって、無差別に切り捨ててしまうのはおろかだ。それではその分野の最良のものを見落とすことにもなりかねない。流行はときに、その分野の最良のものだけを取り出し、持ち上げることがある。

まあ、そんなことを考えながらってわけじゃないんだけど、先日ようやく『マネー・ボール』を読んだ。やばいね、面白いわこれ。(著者:マイケル・ルイス)

日本のプロ野球およびそのファンのあいだでもようやく、マネーボール理論ひいてはセイバーメトリクスが重要視されるようになってきている。偉そうに書いている私も、そもそもそんなデータがあることすら、ごく最近まで知らなかった。これは、セイバーを球団経営に先駆的に取り入れた、、2000年代前半のオークランド・アスレチックスの快進撃の物語だ。

アスレチックスのGM(ゼネラル・マネージャー)に就任した元メジャーリーガーのビリー・ビーンは、「どうしたら少ない投資額でたくさん勝つことができるか(=大きな見返りが得られるか)?」と考えた。

多くの人間が抱くこの疑問に、ビリー・ビーンはこれまで重要視されてこなかった数字にスポットを当てることで解決しようとする。多くの球団が選手獲得の目安としていた打率や打点、盗塁数といった数字に着目する代わりに、出塁率や長打率といった、これまでおざなりにされていた数字の重要性を見出し、結果としてこれまで正当な評価を得られていなかった選手たちを格安で獲得し、チームの勝利に結び付けていく。その発想の根本には、野球を「27のアウトを取られるまでにどれだけ得点できるか競うスポーツ」と定義付けられる明晰さがある。

ここまでが『マネー・ボール』の内容。原書は2003年に出版されており、それから10年が過ぎた現在、状況はまた変化している。
たとえば出塁率重視の傾向。この考え方の有用性が明らかになった今、出塁率の高い選手は以前ほど格安で取ることはできなくなった。それはつまり、金満球団と同じ土俵で争うことに等しい。それでは、勝てない。そんなわけで現在のアスレチックスはこの本ではあまり肯定されていない盗塁やバントも使っていく戦い方にシフトしていっている。マネーボールはまだ進化の途中にある。

もうひとつ、本書でも触れられているが未解決な問題がある。守備や走塁がセイバーメトリクスではあまりに軽視されている。明らかにここには議論の余地がある。結局のところアスレチックスがポストシーズンで勝てていないのは、そこに要因があるとも考えられるのではないか。

なんにしろこれは実に刺激的な本だ。「最良のビジネス書」と評した書評もあるくらい、他の分野でも役に立つ。もっともその評価は転じてみれば、「ビジネス書なんておしなべてクソだ」って言っているようなものなのだけれど。まあ、それには私も全面的に賛成だ。

Au revoir et a bientot !

2013年12月26日木曜日

可能性としての自分

ちょっと間が空いたけど、前回途中になっていた分身と時間について話を進めよう。

といっても論旨は単純だ。直線的時間を生きる西洋人(その終着点では最後の審判が待ち構えている)にとって、生まれ変わることは日本人に較べてはるかに難しい。

というのも多くの日本人は、人生を繰り返される一年の連続として捉えているからだ。いってみればそれは、薄く重ねられた螺旋形をしている。一年で一周しながら、31日から1日の連結点において転生が行われる。

毎年この季節に、一年の終わりを感じない日本人はいない。年末は一年の決算日としてあり、年始は新しい年が始まる清らかな日だ。31日から1日にかけて、除夜の鐘とともに時間は一度殺害され、その後蘇生される。と同時にわれわれもまた、新たな時間へ移行するのだ。われわれは一年ごとに死に向かう螺旋階段を一歩ずつ上っている / 下っているのだといえる。

西洋的な時間ではどうだろう。それを十分に語ることができるほど、直線的時間に精通してもいないし、実感してもいない。あくまで推論だ。

時間が直線的に流れる以上、他の位相と交わる機会はない。線上に入学や結婚といった区切りは存在するとしても、それはあくまで線上の一点に過ぎない。時間は前後には延びていても、上下には伸びていないのだから、上下と見比べることもできない。繰り返される時の流れのなかで、意図的にしろ無意識にしろ、混交することも少ない。

となると、可能性としての自分を見つけるためにはこう考えるしかない。自分が住んでいる世界線と平行に、何本も別の線が走っていて、今のこの世界と限りなく似た時間が、少しずつずれて繰り返されている。その平行世界からの闖入者として、分身やドッペルゲンガーは存在しているのではないだろうか。

分身小説の系譜は長い。まぁ、今思いつくだけでもたくさんある。イギリスではスティーブンスンの『ジキル博士とハイド氏』。アメリカはトウェインの『王子と乞食』。ロシアにはゴーゴリの『鼻』やドストエフスキーのそのまま『分身』なんてタイトルも。先日紹介したナボコフの『絶望』はこれらに対する反・分身小説と位置づけられるだろう。

そんな風に考えを進めていくと、今度はこんな疑問にぶち当たる。「もしや西洋人と日本人の記憶の仕方は全く異なるのではないか?」考えてみれば当然だろう。記憶とは、時間をどのように折りたたんでいるかの結果であり、時間の概念が異なる以上、記憶の仕方が違っても驚きはない。

この問題には様々な方面からアプローチが可能だろう。文学上の参考文献を挙げてみると、日本からは明治・昭和の私小説にアンチ私小説としての大江健三郎の小説群。南米代表はガルシア=マルケスの『百年の孤独』やボルヘスの『アレフ』などは必読だろう。そしてフランスからはプルーストの『失われたときを求めて』。

Au revoir et a bientot !

2013年12月19日木曜日

書物たちの幸福な出会い

たまに自分が、人生を彩る様々な偶然の要素を、本と出会いにすべて費やしてしまっているのではないか、と疑うことがある。

先月は、カナダへ移民したスコットランド系移民への関心と、昨今の世界経済への興味とが、阿部謹也のヨーロッパ中世を語る書物内で、カール・ポランニーという名前になって交錯した。

また別の機会には、旅先のパリで見たエドワード・ホッパー回顧展のポスターに用いられていた『ナイト・ホークス』が、帰国後も私の中にとどまり続け、そこから派生した興味が、やがてリチャード・イエーツの本に結実し、この半年私の読書の中心にあったりもした(今回は彼について書こうと思っていたのだけれど、長くなりそうなので次回に)。

こんな風に、本がまた別の本を呼ぶのはよくある話で、ちょうど2ヶ月ほど前に、同じようなことを書いた文章に出くわした。

ちくま学芸文庫から出ている『山口昌男コレクション』。その第四部に「エイゼンシュタインの知的小宇宙」と題された文章がある。山口昌男が引用した文章を少し孫引きしてみよう。

ある聖人たちのところへは鳥が飛び集まってくる。(アッシジへ)
ある伝説的な人物たちのところへは獣らが走り寄ってくる。(オルペウス)
ヴェニスのサン・マルコ広場でゃ、老人たちのところに鳩がつきまとってくる。
アンドロクレスにはーーライオンが寄ってきた。
わたしには書物が押しかけてくる。
書物はわたしのところへ飛び集まり、走り寄り、つきまとうのだ。(同書p.544-545)

エイゼンシュタインの言葉を引用した後に、山口昌男は自分でもこう書き加える、「どうしてああタイミングよく、いろいろな本が見つかるのですか」との質問に対し、「書物が向こうからやってくる」という感じがすると。

自分のことをエイゼンシュタインや山口昌男のような知的巨人と較べるわけではないが、おそらく私を含め、多くの書物狂が同じような感慨を抱いていることだろう。あるいはこんな文章、

わたしは、書物をたいへん大事にしたので、ついには彼らのほうもお返しにわたしを愛するようになった。
書物は熟しきった果実のようにわたしの手のなかではじけ、あるいは、魔法の花のように花びらをひろげて行く。そして創造力をあたえる思想をもたらし、言葉をあたえ、引用を供給し、物事を実証してくれる。(同書p.546-547)

確かなのは本好きと本とのあいだには自然界の共生と同じような関係が成り立っていて、私という媒体を通じて、出会うべき二つの書物が時と場所を越えて出会うことあれば、運命の出会いに喜ぶ本たちの放射する幸福の電流が、私たち書物狂の口角を反射的に吊り上げさせることもある、ということだ。

Au revoir et à bientôt !

2013年12月12日木曜日

神の悪戯心すら萎えさせる偶然の話――スティーヴンスン『新アラビア夜話』

『ルパン3世vsコナン the movie』に先駆けて、先週の金曜ロードショーでTV版2時間スペシャルをやっていた。

内容のほうは…まぁ、触れないほうがいいことも世の中にはある。突っ込みどころ満載のこのスペシャルだが、まとめてしまうと、「SP弱すぎぃ!」「コナン君超人すぎぃ!」「警備ザルすぎぃ!」といったところだろう。個人的には「偶然に任せすぎ」な点が、一番気になった。

確かに、偶然は物語の重要な要素だ。二人の人物が出会うために偶然は欠かせない。一方で使いすぎると、作り物めいた印象がぬぐえない。

この「過度な偶然性」が気にならない人なら、スティーヴンスンの『新アラビア夜話』も楽しめるだろう。

千夜一夜物語を下敷きにしたストーリーは、ボヘミアの王子フロリゼルとのかかわりを持って進められる。この進め方が面白い。最初の最初だけは三人称ながらも王子の背後に作者がくっつくようにして書いているが、以降はある事件に一人の人物が巻き込まれ、その過程で知り合った王子が助け舟を出し、事件を解決する、という趣向になっている。

王子は探偵小説でいうところの探偵役を担っているのだが、登場するのはいつも物語の後半か、ほんのチラッと姿を見せるだけ。ようはこの物語、焦点が王子の活躍だけに当てられているのではなく、不思議な物語に巻き込まれた市井の人々の慌てぶりや感情の変化を愉しむものなのだ。探偵小説との違いはこのあたりにあるだろう。

それにしても、偶然人と出会う頻度が過ぎるだろう。たまたま王子と一緒の料理店に入っただけならまだしも、物語のキーとなる人物が寝台列車の隣通しの部屋になったり、名うての悪党が罪を犯すところを隣のマンションの窓から安易に見られていたり、突っ込みどころは枚挙に暇がない。偶然と不注意の、あまりにも適当なごたまぜもの。まぁ、キワモノ小説だと思って読めば十分楽しめる。

ちなみに、各物語は次のような文章によって締められる。

これで(とわがアラビア人の著者は言う)「神の悪戯心すら萎えさせる偶然の話」は終わる。ルパン3世とコナンの対決は現在劇場公開中であるが、明らかな理由から私は見ないことにしている。フロリゼル王子と本の内容に興味を持たれた方は、光文社古典新訳文庫の『新アラビア夜話』をお読みになると良い。

Au revoir et a bientot !


2013年12月7日土曜日

ぼくは不安定な一人称――ナボコフの『絶望』

テーマは「分身」?またかよって、ちょっと待って。我慢して50pくらい読んでほしい。読み進めていけばきっと、十分満足できるはずだから。

はっきりいってナボコフは天才だ。筋の巧みさ、小道具の使い分け、小説的技法、ナラティヴや言葉選びの遊び心――どんな深度で彼の小説を読んでも、相応の見返りをくれる。「小説家を目指す若者にとってナボコフは最良の教科書だ」と、大江健三郎が『ロリータ』の解説で書いていたが、それももっともだ。ここには小説のすべてがある。

そんなナボコフ初期の傑作、『絶望』 がロシア語から初訳された。もちろん、光文社古典新訳文庫だ。この小説もまた、彼らしい仕掛けが随所に埋め込まれている。

「ベルリン在住のビジネスマンのゲルマンは、プラハ出張の際、自分と“瓜二つ”の浮浪者を偶然発見する。そしてこの男を身代わりにした保険金殺人を企てるのだが……。」――裏表紙の作品紹介より引用。

「分身」と「犯罪小説的手法の間借り」を示唆したこの文章から物語に入ると、なるほどそんな感じもする。だが、実際のテーマは別のところにある。上の文章で言えば、「……」の部分こそが本題だ。

読者はゲルマンが一人称「ぼく」を用いて語る内容を追っていくのだが、しばらくして「ぼく」がおよそ信頼の置けぬ語り手であることに気づかされる。そう、光が観測方法によって粒子だったり波長だったりする二十世紀以降、物語られる世界もまた、語り手によって姿を変えるのは当然のことだ。

上手いのはその一人称の「ぼく」が語る内容と現実の世界のずれが、物語の転換点の役割を果たすことであり、「ぼく」=読者に見えていなかった世界が一気に露わになる、その瞬間のカタルシスにある。

といいつつこの小説においては、そうしたカタルシスとは無縁だ。なぜというに、ゲルマンの語りの向こうに常に、彼の見ていない世界が透けて見えているからであり、読者は容易に「一人称の不確実性」を見破ってしまうからだ。
そしてゲルマンによって語られない「現実」を必要以上に空想し、先走ってしまう――だって、妻とアルダリオンの関係を見抜けないってのは、いくらなんでも不自然だし、そうである以上ゲルマンはわざと見ないふりをしている、と考えるのが自然な流れだろう?――あげく、消化不良な結末を迎えることになる。

だがよそう、どうせ僕らはナボコフの手の上で踊らされる読者だ。安易な一人称の不確実さの露見も、カタルシスの不在も、おそらくは彼の意図したものだ。そう考えざるを得ないほどに、僕らはナボコフに飼いならされている。そもそも一人称の不安定性を疑う気持ちそのものが、ナボコフの文学的軌跡を追うことによって作り出されたものではないか?

先人のヘマをあげつらって、鬼の首をとったように意気揚々と掲げるその腕が、そもそもその先人によって作られたものだという事実。僕らはここに至ってようやく、ゲルマンの『絶望』に共感することができるのだ。

Au revoir et a bientot !


2013年11月30日土曜日

ヒトは変態してなにになるんだろう?

光文社古典新訳文庫が熱すぎる。

数年前に出始めた当初は正直、侮っていた。ドストエフスキーやコクトーなんかの既訳が存在するベタな売れ筋を、少し手直しして並べただけだろうって。

違ったね。ナボコフやスティーブンスンあたりの有名作家の絶版・未訳ものを出したかと思えば、ブッツァーティやプリーモ・レーヴィあたりの現代イタリア文学を紹介してみたり。果てはわが心の詩人、シュペルヴィエルの小説にまで手を出してしまう。もっとも彼の小説は、「知らなければよかった」類のものなのだけど。
言ってみればこのシリーズは、『今もっとも熱い海外文学シリーズ』なんて、実にマージナルな分野のチャンピオンリングを、白水社のエクス・リブリスシリーズと争っているといえるだろう。

さて、今日はその中からプリーモ・レーヴィの短編小説集、『天使の蝶』の紹介を。

この、SF的雰囲気が多分に感じられる短編集の中でも、とりわけシンプソン氏とNATCA社の画期的な製品が生み出す近未来的な世界像は、同じく20世紀イタリア発祥の芸術運動、「未来派」を必然的に想起させる。そしてその未来派がイタリア・ファシズムに利用されたという点において、イタリア系ユダヤ人として1944年アウシュビッツに収容された筆者の体験と、皮肉な対照を成す。

アウシュビッツでの体験を冷静な視点から描く、『休戦』や『これが人間か』がこの作者の代表的な一面だとすれば、この短編集ではまた別の一面、すなわち「創作を愉しむ」作家としてのレーヴィの顔が見れる。

表題作の命題が面白い。自然界には幼形成熟(ネオテニー)という現象がある。これは、幼生の状態で繁殖できるため、成体にならないアホトロールのような生き物のことをいう。それを知った作中の科学者レーブは、こう考える、「人間もまた、成体に変態する以前の状態、すなわちネオテニーなのではないか?」と。

実はこの命題、1920年、レ・ボルクという学者によって実際に取り上げられている。彼によるとヒトはチンパンジーのネオテニーだという。この議論の結末はわからないが、マッドサイエンティスト、レーブは続けてこう考える。「ヒトは天使のネオテニーではないか」

レーブは人体実験に取り組み、その結末はグロテスクなものだが、この命題自体は今も通用する。それを大人になりきれない現代人のアレゴリーとして読むのもいいだろう。それが少しばかり教訓的すぎるというのなら、どうぞお好きなように。読み方は自由だ。

そう、アイディアや下書きと作品とのあいだに横たわる画然とした溝こそが、自然界で「変態」と呼ばれる現象であり、芋虫が蝶になる瞬間なのだ。どんなに不恰好な蝶でも蝶に変わりなく、同じようにどんなに美しい芋虫も、芋虫以外ではありえないのだ。

Au revoir et a bientot !

2013年8月22日木曜日

文学の食わず嫌い

大事なのは訳者の名声ではなく、翻訳の質だ。

村上春樹訳というだけで避けてきたレイモンド・カーヴァー選集を、食わず嫌いはよくないと思い、初期短編集から読み始めた。新書サイズで主な作品は大体揃っていて、値段も1000円ほどと手ごろ。今日びこれだけ恵まれた読書環境にある海外作家は他にあるまい。これも訳者の名声がなせる技!

肝心の内容は乏しい。中流階級の没落や労働者階級の悲哀を描いた作品が多いが、どれもいまいちピンとこない。切実さがないのだ。というか、現代日本に生きる私が共有できる感覚でない、といおうか。

食わず嫌いにはそれなりの理由があるのだ。同様に作者と読者の相性というものもある。私にとって作家村上春樹は、高校時代に夢中になって読んだときの輝きをもはや放つことはない。と同時に、翻訳者村上春樹は下手くその烙印を押されてしまった。

『頼むから静かにしてくれ』2冊ともう一冊短編集を購入したが、どうにもしようがない。学生が英文和訳したような直訳文体が多すぎる。そういう技法だ、といわれてしまえばそれまでだが、全く魅力がない。なんでもかんでもカタカナでごまかすのはいかがなものか。チャンドラーの傑作『長いお別れ』をそのまま『ロング グッバイ』と訳したときから気づいてはいた。実際に読んでみると物悲しい気持ちになる。これを読むと作家として必要な資質と、翻訳者のそれとは全く別物だ、ということに気づかされる。

読者と作者の相性は重要だ。世界中の本を読むだけの時間がわれわれには与えられていないのだ。

人生は有限で、読書に割くことのできる時間は限られている。どうして自分にとって有用でない本に時を割くことができるだろう?人生は短く、本は永遠だ。

人は自分が世界の中心だと思う。それは正しい。ただしその法則はすべての人に例外なく適用される。本の中の登場人物であっても同様だ。彼らにとって読者は、ある世紀、ある時代に背中にふと感じた、幾百もの視線のひとつに過ぎない。

人の一生は久遠の時の流れる本の中に刻まれた、束の間の出会いだ。どうせひと時の思い出なら、美しいほうがいいだろう?食わず嫌いをするには、これだけで十分だ。。

Au revoir et a bientot !

2013年8月2日金曜日

『他人まかせの自伝――あとづけの詩学』

優れた本はリトマス試験紙だ。読むことでその時々に考えていることを、自分で言葉にするよりも上手く表現された箇所を見出す。だから繰り返し読む必要がある。優れた本は多層・可変構造をした建造物であり、訪れるたび、新たな表情を見せてくれる。ほら、今日も違った地層が見えるだろう?

タブッキが亡くなり、私なりの追悼文を書いて一年が過ぎた(用意されていたかのような追悼文)。その間に一人の友人がタブッキの文学世界に引き寄せられ、その影響で私も再度、といわず4,5度目のタブッキ諸島をめぐる旅に出る。

タブッキの小説を島々に例えるのは、『ポルト・ピムの女』によるところが大きい。もっとも、須賀敦子の翻訳した『島とクジラと女をめぐる断片』を私は読んでいない。となると、あれだ。

『他人まかせの自伝――あとづけの詩学』。このタイトルは一見、タブッキなりの小説作法のようにも見える。キングによるそれを読んだばかりであるだけになおさらだ。

それを裏付けるような文章もある。タブッキ自身によるジョゼフ・コンラッドからの引用、「まず作品ができる。それから初めて、その理論を考え出す。それは退屈しのぎの独りよがりな仕儀にすぎず、おそらく役には立たないうえに、謬った結論へと導きかねないものだ」とはまるで、キングがストーリーとテーマについて語った言葉を繰り返しているようだ(リトマス試験紙としての役割!)。そんな風に読み進めてみてもいい。

あるいは「他人まかせの」と言いながらも自伝として読むこともできる。もっともそれにしては、相当に断片的なものだが。

どちらの読み方をするにせよ、あるいはまた別の読み方にせよ、ある地点から読者は奇妙な感覚に襲われることになる。その感覚の根元にあるのは、「どこからが現実で、どこからが虚構なのか」境界線の定まらない不安だ。これまで自分の立っていた場所が、足元から崩れていく恐怖。自分が現実と見定めて読み進めていた開始地点からしてすでに、虚構だったと知ること。

この「境界線を明確にしたい」人間の願望を、タブッキは逆手に取るように、こう語る。

人生は、ものごとのおおもととなる流出だ。しかし、ここからここまでが人生であると、測量するように確定することはできない。つまりは、川だが、岸がないのだ。(p.86)

タブッキの小説を島々に例えるのは適当か?たとえそうでないとしても、この比喩を推し進めるならば、この本はそれらを巡る遊覧船に例えられるだろう。そしてある島で下船して、船のほうを振り返ってみると、島の形に見える。島なのか船なのか?その境界はいつも曖昧である。

Au revoir et à bientôt !

2013年8月1日木曜日

たくさん読み、たくさん書く

小説作法についての本ほど読んで空しいものはない。

古今東西小説に関する様々な本が出版されてきた。そして最後にはいつも、「才能とはなにか」なる問いに行きつくのが常だ。なぜだろう?

答えは簡単だ。それらの本を書くのが小説家として成功した人々だからであり、彼らは当然、「自分には天賦の才がある」と思いたがる。

それに対し、本書の著者であり、世界的に著名なホラー作家、スティーヴン・キングは言う。3流が2流になること、1流が超1流になるには努力だけではどうにもならない。しかし、2流のもの書き(多くの一般的な書き手)が、自己研鑽を重ねて1流になることは可能だ、と。

『書くことについて』と題されたこの本で、キングはその方法論を惜しみなく開示している。多くはキングの経験に基づいた、転用の不可能性が疑われるものだけれど、それは仕方のないことだ。自分の価値観を築くこと、つまり自分のやり方に自信を持つためには、キングの言うように、たくさん読み、たくさん書く  しかないのだから。

最初の一章「履歴書」では、自身の生い立ちや作家を目指したいきさつを語り、次の「道具箱」では、小説を書くために必要な道具、語彙(大きさじゃなくて、どう使うか)、文法(副詞はタンポポだ、放っておくとすぐにいっぱいになってしまう)、文法作法について語る。面白いのは次の「書くことについて」と題された一章で、ここでキングは、「なにを、どうやって書くか」を赤裸々に語っている。

「なにを書くか」について、答えは明快だ。自分の書きたいことを書く。それだけだ。

一方、「どのように書くか」。その手法部分がとりわけ面白い。最初に「状況設定」を考える(もし吸血鬼がニューイングランドの小さな町にやってきたら?)。プロットは(ほとんど)存在しない。大事なのはストーリーだ。ストーリーは自然にできていく(作者はそれを、地中に埋もれた化石を掘り起こす作業に例える)。ストーリーとプロットはまったく別物だ。ストーリーは由緒正しく、信頼に値する。プロットはいかがわしい。自宅に監禁しておくのが一番だ。背景描写や会話や人物造形は、大事だけれど些細なことだ。そしてテーマ。それは最初から考えるものじゃない。後見直してみて、作中に自然に浮かび上がって来るものだ。

この本でもうひとつ面白いのが補遺その一、「閉じたドア、開いたドア」だ。そこでは具体的に、なにがよくてなにが悪いか、文章を添削して説明している。

小説家志望の若者がこの本からなにを得られるか?たくさん読み、たくさん書くという当たり前のことと、小説の方法論は自分で学びとるしかないことの再確認。実践的に使えるのはこれくらいだろう。

もうひとつ、この本には優れた効能がある。読み終えると否応なしに小説を書きたくなることだ。読者にそう感じさせる以上、これは実に優れた小説作法本である。

Au revoir et à bientôt !
 
参照:『書くことについて』 / スティーヴン・キング 著 小学館文庫


2013年7月28日日曜日

小粋なクリスマスプレゼント

親愛なる友へ / cher ami

僕としたことがついかっとなってあんなことを言ってしまった。君のことを非難するつもりはなかった。僕のこの言葉を君なら信じてくれるものと思う。なるほど、二人の考え方は大きく違う。それは僕だって認める。でも今僕らが、ともに、直面している問題と、それを解決することで開ける新しい世界のヴィジョンは共通しているのだ。どうして仲たがいする必要があろう、僕らは血を分けた兄弟みたいなものだ。こんなことで二人の友情が終わりになることはないと信じている。

ともかく今日は、われらが主の誕生を祝おう。ささやかだがこれは僕から君へのプレゼントだ。君がこれを、和解のために伸ばされた手だと、悪意を持って捉えることはないと信じている。だって僕らは、結局のところ、仲たがいをしたのではないのだから。そうだろう?

なにはともあれ メリークリスマス!/ Joyeux Noel !

――いつまでも君に忠実な友より

昨夜の激しい言い争いから数時間とせず届けられたクリスマスプレゼント。粗末な木製の箱の上に、小石を重しに置かれた手紙は、むき出しのままミストラルに震えていた。

アルルの街並み
読み終えた手紙を手に、男はふっと息を吐いた。昨日、彼の態度は許しがたいものだった。侮辱された、と男は思った。加えて今日のこの手紙。彼に羞恥心や反省を求めるのは難しい、頭ではわかってはいても、納得はできない。クリスマスにおよそふさわしくない、粗野な造りの木箱のふたに、彼のふざけた笑い顔が、刻印されたかのように浮かんで見えた。

昨夜の彼の態度は我慢ならない。俺がもう少し若ければその場で決闘を申し込んでいたかもしれない。だが俺も、少しばかり熱くなりすぎた。世間知らずの白痴に向かって、言うべきでないことを言ったのも確かだ。話の舵取りを任せられていたのは年長者たるこの俺ではなかったか・・・。

男の顔に微笑が浮かんだ。株式仲買人だった男の過去が表情筋の上を無意識の電気信号となって走り抜けた。

木箱をゆすると、軽く乾いたものの擦れる音がした。開けてみると、彼が普段使っているデッサン用紙が、丸められて緩衝材代わりに詰め込まれていた。他人への贈り物をくずかご代わりに使ったらしい、皺のよったデッサン用紙の上で、いくつもの線が予期せぬ箇所で交じり合い、新たな面を作っていた。その上から滴った赤が、また別の次元を、奥行きを、襞のあいだに隠れた神秘を暗示していた。視線は自然に、用紙の真ん中に収められた、贈り物に引き寄せられた。

それは切りとられたばかりの男の右耳だった。

奇天烈なエピソードに彩られたフィンセント・ファン・ゴッホの人生も、1890年7月27日から29日にかけて終わりを迎える。終生売れない画家であったゴッホは人生に嫌気がさし、自らの胸に銃弾を打ち込む。享年37歳。弟のテオだけが、生前彼の唯一の理解者であり、支援者であり、兄弟であり、そして終生変わることのない友だった。兄の死の半年後、あとを追うようにして命の火が消えてしまう。享年34歳。ゴッホの絵画が売れ始めるのは以降、兄弟のあずかり知らぬところでだった。

Au revoir et a bientot !

2013年7月26日金曜日

ボッティチェリと「萌え」の歴史

これだけ上手いと嫉妬しちゃうぜ。

中野京子氏の『怖い絵』シリーズが文庫になっていたので、「泣く女」編と「死と乙女」編を続けざまに読んだ。タイトルからして、美術をよく知らないライト層に向けた入門書、というか、物事を大げさに言い立てて、耳目を集める悪いベストセラーの見本のように想像していたのだが、いい意味で裏切られた。

時代時代の流行りものや習俗に言及することで、絵画の描かれた時代背景、時代の雰囲気を読む人に体験させる。西洋史と西洋絵画史を重ね合わせることに成功した、良作だ。作品の紹介順が時代・場所とまるで脈絡のないのだけが、少し残念だけれど。

文章が良い。決して自分語りに堕さない程度に解釈を加えながら、それぞれの作品の本質とテーマ、歴史背景、観賞のポイントを教えてくれる。決して押しつけがましくなく、ひとつひとつの絵画をめぐる物語を、ストーリーテリングしていく。

秀逸だったのは、『ヴィーナスの誕生』と題された二つの作品の紹介。ボッティチェリのあまりに有名な同作が、正確にはヴィーナスが海上で誕生した後、キプロス島の浅瀬へ打ち上げられた瞬間を描いていることを示したあと、ヘシオドスの『神統記』に依拠し、彼女の誕生を我が子を喰らうサトゥルヌスと繋げる。ヴィーナスと数多の愛人、それに誰よりも醜い肉体を持つ夫、鍛冶の神ヘパイトスのねじれた関係で愛と死、恋愛の幸福と罪業を示す。

カバネルの『ヴィーナスの誕生』は一転して近代との繋がりから紹介される。ここで描かれるのはギリシャ神話ではなく、西洋絵画史におけるヌード神話のほうだ。女性の裸を描くのに、神話や歴史上の事件を必要とした時代が、やがてマネの『草上の昼食』に代表されるように卑俗なものとなっていく。そこに、これまで王侯貴族の専有物だった裸体画の、大衆への公開とその影響を重ねる。

カバネルら同時代の画家が描いた裸体画の衝撃。それは、「我らが夢の裸体」の現出であった。男はそれを抱きしめたいと願い、女はこうなりたいと願う。また、男は自分の妻や愛人の肉体と較べて愕然とし、女も彼我の差にショックを受ける。

現代のグラビア誌やスクリーンに映されるヌードと我々の関係そのものだ、と作者はいう。デジタル処理が施されたしみや毛穴ひとつない艶やかな肌、細かく修正されたボディライン。もはやどこにもリアルはない。夢の裸体が存在感を増すにつれ、現実の(=三次元の)肉体はますます受け入れ難いものとなる――

これは絵画の本じゃない。15世紀のボッティチェリから21世紀の日本までを、わずか20p で横断する作者の筆力を存分に堪能する本だ。

Au revoir et à bientôt !
 
参考文献:『怖い絵 死と乙女篇』 / 中野京子著 角川文庫 


2013年7月4日木曜日

ポケットの中の世界

どんな地方にもヒーローはいる。

その地方の出身ではなくても、なにかしらの縁があれば、地元の誇りとして喜ぶ。どこもそう変わりないだろう。

スポーツでは野球の松井秀喜、サッカー日本代表本田圭介。文学・思想界には泉鏡花に室生犀星、徳田秋声は脇に置いといて、鈴木大拙に西田幾多郎。それでも足りなければ井上靖なども加えることのできる石川県金沢市では、郷土愛を存分に発揮する機会がいくらでもある。彼らは一時金沢に住み、今も年に一度訪れる私にとっても、偏愛の対象となりうる。

まあでも、これはないわ。

講談社学術文庫に収められた鈴木大拙の『一禅者の思索』。最初2編の講演書き起こしはいいが、残りは短い雑感のたぐいを一冊にまとめただけで、かなり物足りない。これでは大拙の思想の全貌は知れないし、初めて氏の思想に触れる人に対しての入門書としても物足りない。

その学術文庫の巻末にはこんな文章が載せられている。

これは、学術をポケットに入れることをモットーとして生まれた文庫である。…こうした考え方は、学術を巨大な城のように見る世間の常識に反するかもしれない。また、一部の人たちからは、学術の権威をおとすものと非難されるかもしれない。…しかし、学術の権威を、その形の上だけで判断してはならない。その生成のあとをかえりみれば、その根は常に人々の生活の中にあった。…学術文庫は、内外の迷信を打破し、学術のために新しい天地をひらく意図をもって生まれた。文庫という小さい形と、学術という壮大な城とが、完全に両立するためには、なおいくらかの時を必要とするであろう。しかし、学術をポケットにした社会が、人間の生活にとってより豊かな社会であることは、たしかである。
「講談社学術文庫」の刊行に当たって

学問を城にたとえるとき、私の頭にはカフカの『城』が浮かんだ。近くにあるのに手が届かない対象、というだけではない。人間の執着と怨嗟と、その他多様な感情の働きを詰め込んだ、巨大な一個の生き物のようなそれだ。やがてそれは、他所者であったKをも巻き込み、その内側に取り込んで、巨大な城の一部となる。

学問は巨大な城だ。それはそのまま人類の歴史だから。すべてを渉猟するのは不可能だ。君の歩みよりも早く、どこかで新たな城壁が築かれる。誰もがその築城に参する一員だ。俯瞰してみればこのブログを書いている私も、どこかの一隅で砂の城を作る子供の一人には数えられるだろう。

本は地図であり、同時に入口だ。読み込むことで世界の住人となる。レメディオス・バロの世界の住人が刺繍するマントには窓があり、外の世界に向けて開かれている。
地図はポケットになければ意味がない。ポケットは世界へと繋がっているのだ。

Au revoir et à bientôt !
 

2013年6月30日日曜日

揺らぎを捉えて

格好いいやん?憧れるやん?

これぞハードボイルドな古典、ギャビン・ライアルの『深夜プラス1』大富豪マガンハルトを定刻までにリヒテンシュタインまで送り届ける任務を負った主人公ルイス・ケインが、派手な銃撃戦やら心理戦やらをかましながら目的地まで達する様を、巧緻な会話を織り交ぜて描く、まさにエンターテインメント小説の王道だ。

ごめん、それって映画でいいやん?

せやな。文学と映画の違いを今ここで論ずるつもりも準備もないけれど、この作品が実にビジュアル的で、ハリウッドのアクション大作向きであることに異論はないはずだ。

もっとも、この作品の最大の魅力は人物造形にあるだろう。主人公の「カントン」ことルイス・ケイン、アル中ガンマンのハーヴェイ、、産業スパイのジェネラル・フェイなど、いずれもひと癖二癖ある人物ばかりだ。

だが、それが物足りなくもある。

巻末解説で、田中光二という作家が、「エンターテインメント・プラス1」と題して、「エンターテインメイトの本質はなにか」を述べている。ただ面白ければいいのか、読後になにか残るものがあることがその条件なのか。

答えは出ていないが、エンターテインメントといわゆる純文学の違いは私の中で一つの答えが出ている。人物が一貫してるかどうか、より平たくいえば、登場人物がキャラクターかどうか。その違いだ。人物の首尾一貫性、それこそがセリーヌやジュネの小説とハードボイルド小説との混交を避ける要因だろう。

文学を人間を書くものだとしたら、その不条理さこそが書かれるべきだ。人間とは弱く、脆い生き物で、朝令暮改は当たり前、自分のルール、倫理観なんてものも、自由に融通がきいて、あってないようなものだ。

『深夜プラス1』に話を戻そう。この小説の登場人物たちはみな、魅力的かもしれないが、それぞれに与えられたキャラクターに嵌りすぎている印象がぬぐえない。ハーヴェイの言葉を借りれば、彼らは一人の例外もなく「プロ」なのだ。プロを相手にすることは楽だ。行動が予測できるから。

アマチュアを相手にするのはしんどい。なにをしてくるかわからないから。それが、人の世だ。

Au revoir et à bientôt !
 

2013年6月29日土曜日

文学のインプロヴィゼーション

もう2年も昔に、「人生にリセットボタンはないが、社会にはあるべきだ」というタイトルの文章を書いた。人の生きる時間は不可逆的で、「あのときああしておけば」と後悔してもやり直せない。その一方で、社会が一度失敗したからといって、立ち直れない仕組みになっていては、後悔にまみれた人間たちの生きる場所がなくなってしまう。

創作にも同じことがいえる。

人の一生の持つ不可逆性と、(理想的な)社会の持つ柔軟性をそのまま、ファースト・テイクとその後の修正に較べてみること。

勢いに任せてでも、呻吟しながらでも書きあげた第一稿は、それ自体ある種の聖性を持つ。加えられるにせよ削られるにせよ、あるいは順序が入れ替わるにしろ、すべて後出し、後付けにすぎない。それらはすべて、ファースト・テイクの不滅を否定するものではない。

それでは、時間が、つまるところ人生が含む一回性を推し進めていくとどうなるだろうか?ファースト・テイクの至高性を唱えたのが、ジャズのインプロヴィゼーション(即興演奏)であり、文学なら集ルレアリストの自動筆記(écriture automatique)だろう。


今回紹介するボフミル・フラバルの『わたしは英国王に給仕した』も、自動筆記とは異なるものの、わずか18日で書きあげられたと言われており、ファースト・テイクを重視した作品といえる。

駅のソーセージ売りから出発した主人公が、その人間的魅力を武器に、いかにしてホテルの経営者まで上りつめるか。ドイツ文学の伝統にある教養小説(Bildungsroman)の一種とも言えるが、それよりもより中欧文化に根差しているようだ。

性的なものとユーモアの結合は、同国出身の現代フランス作家、ミラン・クンデラと共通するし、なによりハシェクの『兵士シュヴェイクの冒険』と、ストーリーの展開の仕方が瓜二つ。どちらも戦争や出世街道といった英雄譚の要素が求められる題材を、民衆の言葉と笑いを巧みに用いて、ドタバタ喜劇に転換している。

この作品を読んでなにが得られるか?「人生は一度きり。だから目いっぱい楽しもう」なんて、腐った格言めいた言葉を引き出すよりも、主人公に思いっきり影響されて、好きな女の子に告白して、見事玉砕して、周りから嘲笑され、作者を呪うほうがきっと、草葉の陰で眠る作者にとっても本望だろう。

さ、思いっきりやらかそうぜ。

Au revoir et à bientôt !
 

2013年6月28日金曜日

ノーベル文学賞作家によるエロ小説

…性は民主的にはなりえない。それは選民的、貴族的であり、たがいに同意をしたうえでのある種の専制主義があって成り立つものである。
『ドン・リゴベルトの手帖 p.318』

人間の記憶なんてものは実に曖昧なものだ。クンデラのものだと確信していた文章に、リョサの小説内で出会う。前々回にも言ったように、今読み終えた本の内容すら、要約するのは容易じゃない。

つい先日、マリオ・バルガス=リョサの『ドン・リゴベルトの手帖』を読み終えたのだが、すでに内容の大半を忘れてしまっている。

それにしてもなんとまぁ、大仰な作品だろう。明らかに前作『継母礼讃』のほうが、小説としての完成度も物語性も高い。正直何度か途中で投げ出そうと思った。

物語は前作、息子フォンチートの(悪意のない)戯れによって、別居生活を余儀なくされたリゴベルトとルクレシア。二人がいかにしてヨリを戻すのか、それが物語の大枠だ。

それだけでは文庫400p 近くにもわたって書き続けられるはずがない。その間隙を埋めているのが、エゴン・シーレの素描を中心とした絵画のイメージだ。

リゴベルトが空想する、絵画のイメージの実現。それは絵画の登場人物のポーズを模倣することによって現実化する。読者は、彼の、そして息子フォンチートの奔放でエロティックな幻想を、心ゆくまで堪能すれば良い。だが正直にいって、このイメージ自体前作のほうが優れている、と言わざるを得ないのだけれど。

知的な大人だけがなし得る性的遊戯がここにある。これぞエロスだ。プレイボーイ誌の固定したイメージにはマネできないエロ。

エロスとはつまるところ、想像力の飛翔だ。女性の裸体に勃起する性器に災いあれ。人間を動物と分かつものは極限すればこのイメージの力に限られる。

固定化したイメージ、シチュエーションを楽しむのも時にはいい。もっともそれは、高級料亭の味を知った者が食べる、280円の牛丼であり、頽廃的な趣味だ。たまにはいいね、でも食えたもんじゃないね――エロ本やAVなんてみんな同じだ、とリョサは言う。

そうだ、空想にもっと自由を。飛翔せよ、我が幾千万の精子たち。時は来たれり。

Au revoir et à bientôt ! 
『継母礼讃』とアフォガート。至高の組み合わせだ…

2013年6月20日木曜日

足りない「なにか」を埋め合わせるもの

「おとといは兎を見たわ、きのうは鹿、今日はあなた」。

「ロバート・F・ヤング永遠の名作」と帯広告に銘打たれたこの作品、今年5月30日に初版が発行され、既に3版を重ねているのは、海外文学ジャンルにおいては極めて異例なことだ。

もちろんこれにはタネがある。どうやら『ビブリア古書堂の事件手帖』とやらに同作が登場している模様。ライトミステリ系の作品で400万部突破、今年1月にはテレビドラマ化もされたようだ。なるほど。本と本とを繋ぐ道はどんな形でも構わない。殊にこのような形で人気が出て、絶版本が再刊されるような運びとなれば、一読者として悪いことなど一つもない。

『たんぽぽ娘』は河出書房の奇想コレクションから発売。2003年に刊行が始まったシリーズで、同作をもって全20冊完結した。内容は海外のSF、ファンタジーを主としている。

当時私は書店に勤めており、松尾たいこ氏によるカバー絵がひどく印象的だったのを覚えている。

シリーズで他に読んだのは、のちに文庫化されたシオドア・スタージョンの3作、『不思議のひと触れ』、『輝く断片』、『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』のみで、この4作だけでこのシリーズ全体を、更にはSFを語るのはおこがましい。

それでもあえて言わせてもらおう、SFってやつには「なにか」が足りない、と。

私もSFでは嫌いではなく、ある程度(本当に!)は読んできているつもりだが、これまでSFで「名作」と呼ばれるもので、二度読み返したものはない(例外はカート・ヴォネガッド・Jr の『スローターハウス5』)。

理由としては、このシリーズのように作品の多くが、その面白さの大部分を「奇想」に負っており、それを堪能してしまったら、後には何も残らない。

じゃあ、それが悪いか、といえばそんなことはなく、むしろ大歓迎だ。『たんぽぽ娘』も私は結構好きだぜ。もちろん、「永遠の名作」なんて言葉は少しばかり盛りすぎた、とは思うけれど。

この作品集で優れているのは表題作と、ラストの『ジャンヌの弓』。どちらもSF的小道具を上手く使って、人間性を、より正確には恋の素晴らしさを賛美している。とりわけ後者の作品は、すべての道具立てが巧妙に組み合わされて使われており、ラストシーンは感動的ですらある。

確かに、私にとってSFとは「なにか」物足りなさを感じさせるジャンルだ。だがそれを埋め合わせる要素もここにはちゃんと入っている。それは、失われた楽園=青春への限りない憧憬だ。

Au revoir et à bientôt !