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2014年8月7日木曜日

書かれなかった過去を振り返ろう

人間は経験する自己よりも記憶する自己に固執する。

誰の受け売りかって?2002年ノーベル経済学賞受賞のダニエル・カーネマン。彼は人間にとっては経験そのものよりも、その記憶のほうが大切だと喝破した。

そのための思考実験として、カーネマンは次のような例を挙げる。

休暇の終わりに、撮影した写真やビデオをすべて破棄するとします。さらに、休暇の記憶をすべて消してしまうような薬を飲むとします。
事前にこれらのことがわかっている場合、あなたの休暇のプランに影響はありますか?
記憶に残るふつうの休暇と比べた場合、記憶が消失される休暇にいくら払いますか?

カーネマンの結論によると、記憶の抹消は経験の価値を大きく損なってしまうようだ。ある人は記憶がなくなってしまうなら、わざわざ出かける必要はないという。気持ちはよくわかる。ところで、経験と体験の違いってなんだろう?

4月末からブログをほとんど更新しておらず、ブログの開設三周年を自分で祝う機会も逃してしまった。その間、いろんな場所に行って、いろんなものを見聞した。その記憶を、手帳に残された僅かな手がかりをもとに、再構成する。そんな企画を今月はやろうと思う。経験した自己を、記憶する自己に変容させるのだ。

以下のようにルールを定めよう。
・ 5月~現在までの手帳に残された記録を元に、時系列で書く。
・ 本や映画の感想は、その本を読み返さず、残っている記憶と記録だけを頼りに書く。
・ 自分の残したメモを引用する――自己引用の悪癖!

次回は、アンドレアス・グルスキー展(5/2)について。

Au revoir et à bientôt !
2014年の手帳。ボールペンはuni のJETSTREAMを愛用。

2013年2月19日火曜日

フランス語学習者のための Kindle

Playstation も iPhone も、はじめはクソだったじゃねえか。
重要なのはその時点での完成度ではなくて、未来にかける可能性だ。

とにかく文字がキレイ。これマジです
とまあ、御託を並べてみたところで、私に各種ハードの将来性がわかるはずもない。そもそもKindle の発売元は世界最大の書店、Amazon.com なわけで、ゲーム業界に新規参入したSONY のPlaystation とも、携帯音楽プレイヤーでは圧倒的シェアを誇っていたものの、スマートフォン市場では後発だったApple の iPhone とも状況は違う。インフラ整備が完了しているKindle の一人勝ちは発売前から決まっていたようなものだったろう。

まあ、そんなことはどうでもいいだろう。一般の消費者にとって重要なのは使いやすさだ。それも「どれだけ自分に合っているか」なんて、横暴な価値観によって下される評価だ。なるほど、クソミソに言ったところで、おそらくなにも変わらない。だが、その商品をくさす権利がなくなるわけではないのだ。

Kindle Paperwhite を買ってまだ3日。早急に結論を下すのはよろしくないが、とりあえず現時点における、フランス語学習者から見た良い点、悪い点をそれぞれあげてみよう。誰かがこれを読んで、購入の参考にしてもらえれば幸いだ。

まずは良い点。

・ 「紙のように読める」という謳い文句が誇大広告になっていない、圧倒的読みやすさの e-ink ディスプレイ
・ 仏仏辞書が内蔵しており、ある程度のフランス語学習者であれば、Kindle だけで完結する
・ 20世紀以前の有名作家の作品はほとんど無料か、ただ同然で手に入る
・ 簡単に持ち運べる大きさ。普通のペーパーバックの大きさより少し小さいくらい

次に気になった点、悪い点。

・ 微妙に重い。正確には軽い(213g)のだが、重く感じてしまう。カバーをつけるとより一層だろう
・ 内蔵の仏仏辞書があまりよくない。個人的は Le Robert を使いたいのだが、Amazon.jp では未発売(使用する辞書を選択する機能があり、辞書の普及によってこの点は改善されると思われる。仏和辞書を使用することもいずれ可能になるだろう)
・ 著作権の切れた作者の本が多い代わりに、現代作家の作品はほとんどない
・ ページ送りや単語を調べるなど、一つの動作を行う際に画面が暗転する
・ カバー使用を前提とした作り。Kindle だけを持ち運ぶのは少し怖い

とまあ、こんな感じだろうか。

で、結局のところどうなの?買いなの?と聞かれたら、いろいろと不満点を挙げたものの、「絶対買いだね」と私なら答える。もっとも相手が「移動中でもずっと本を読んでいたい」、活字中毒な人間に限らせてもらうが。

明らかにこれは「移動中の使用」にこそ、最大の能力を発揮する製品であって、家なら普通の本が良い、って人も多いだろう。かく言う私もそんな一人だ。だが、e-ink の技術には圧倒された。この画面で読めるのなら、いろいろ不満はあるにせよこれで読んでもいいな、と思わせるだけの説得力がある。

フランス語学習者にとってはどうか。これは学習レベルや目的によるだろう。私が初学者なら、Kindle で本を読むのは間違いなく投げ出していた。だって、仏和辞書がないんだぜ?今も電子辞書を併用して使用しているものの、その機会はまれだ。残りはすべて Kindle 上で済ませられるからこそ意味がある。

あるいはフランス語上級者であっても、仏文学に興味のない場合はスルーだろう。バルザックだったり、モリエールだったり、サン・シモンだったり、ネルヴァルだったり、ドーデーだったり、ゴーティエだったり、ピエール・ロティだったりに興味がないのなら、避けた方が賢明だ。だって今のところ、そんなのしかないんだもの。

つまるところ、Kindle を買うべきフランス語学習者は、中級から上級レベルのフランス語を習得(仏仏辞書の使用に差支えがないレベル)しており、なおかつ仏文学(それも19世紀までの)に興味のある活字中毒者、ということになる。

そんなのニッチな市場だって?そんなの私だって、Amazon.com だってわかってる。だが「ニッチな市場」の獲得、それこそがネットの普及で最大限にまで拡大された、未来にかける可能性なんだろう。

Au revoir et à bientôt !
 



2013年1月8日火曜日

R×R (Robot × Rock)

全自動ピアノが出たときからわかっていたことだ。

ロボット三人組が Motörhead / モーターヘッドの楽曲、『Ace of Spades』を演奏したからといってそれがなんだってんだぃ?
ドラムのStickboy
全自動ピアノの優れた点は、あくまでピアノの枠に留まりながら、人間では決してできない指の動きを追求し、結果として聴く人に新たな音楽的刺激を与えたことによる。

彼らはどうだろう。今はまだ人間の模倣の域を出ない。だが既に全自動ピアノにできないことをやってのけている。頭を振ってリズムを刻み、インストゥルメンタルさえこなしてみせる。

ロックバンドにこの言葉は不適切かもしれないが、彼らはそう、スウィングしてるのだ。



今日は、そんなイカした三人組ロボットバンド Compressorhead を紹介しよう。(参照記事はコチラ

ベーシスト、Bones
ドラム担当の “スティックボーイ” はグループ最年長の5歳(2007年誕生)。4つの脚に2本の腕、ひとつの頭の中は空っぽのナイスガイだ。


ギターは “フィンガー” が担当。2009年加入のこのギタリストは、78の指を駆使するテクニシャンだ。6本のコードの上を這いまわる指の動きは実に官能的だ。


ギター担当、Fingers
最年少ベーシスト、“ボーン” が生まれたのは2012年。まだ1歳にも満たないが、「世界最高の精緻さ」を誇るという、製作者自慢の神童だ。その類い稀なる才能を最大限に発揮できるのか、未知なる未来に彼を待つのは、天国か、それとも地獄だろうか。

喝采の準備はいいかい?栄光のステージライトはすぐそこだ。2013年オーストラリア。オリジナルの楽曲を引っ提げて登場、なんてこともあるかもしれない。

時は21世紀。新しい時代はもう、とっくに始まっているんだぜ…。



Au revoir et a bientot !
参照 Compressorhead のホームページ:http://compressorheadband.com/

2012年12月19日水曜日

はなくそまんきんたんで10を数えて

だるまさんがころんだ、だるまさんがころんだ…

今となっては不思議なくらい、子供の頃は数を数えてばかりいた。缶けりやかくれんぼ、鬼の目から逃れるにはいつもある程度の時間を必要とした。遊戯には常に数える行為がついて回った。

ただ数えるだけではゲイがないと、流行っていたのが上記のようなちょっとひねった数え方。「だるまさんがころんだ」はちょうど10文字。これを10回繰り返せば自然と100を数えたことになる。早口言葉のような面白さとリズム感が、「数える」という単調な動作を、遊戯に変えていたように思う。

我が家では、もっぱら「はなくそまんきんたん」が使われたものだ。もちろんこれも10文字。だるまさんと同様の理由に加えて、「はなくそ」の下品さと「まんきんたん」の意味不明さが混ざり合っており、まさしく子供心をくすぐる単語だったのは間違いない。

さて、大人になって子供の頃なにげなく使っていた言葉の意味がわかる、ということがあって、この言葉もそのひとつの体験だった。

越中富山の反魂丹
鼻くそ丸めて万金丹
それを飲むやつあんぽんたん

これらの語句を小気味よく繰り返す老婆との出会いがきっかけだった。

意味はそう、薬に対する不信感を歌ったもののようだが、実は最初、この歌を聞いたときに幼いころの数え言葉との関連は得られなかった。私にとってそれだけ、「はなくそまんきんたん」が独立した言葉であった、ともいえる。

本当の意味など、どうでもいいのだ。大事なことは、自分が幼少時に使っていた語彙の保持と、その効果の持続だから。

「はなくそまんきんたん」。それは物事を動かす魔法の言葉。遊戯の開始を告げるのはいつもこの言葉だった。同時にそれは、やり直しの呪文でもある。
もちろん、ここには現在からの意図的な歪曲が存在する。むしろそうであるがゆえに、わたしは今もこの言葉を呟いて、一度すべてをリセットし、新たにやり直す気になっているのだ。

はなくそまんきんたんと10数えて、さあ、一からやり直そう。

Au revoir et à bientôt !
 

2012年5月5日土曜日

バスとメトロ

おはようございます。

5月ももう5日ですね。もう少し経つと今年も半年が過ぎることとなり、そのあとには夏が来て、夏が終わると一年も終わりに近づく、そして11月には昨年も落ちた仏検準一級の試験に挑戦、三度目の正直です。昨年も落ちた、ね。

このブログも6月の24日で、一周年を迎えることになります。月日の経つ早さに驚きますが、自分のこの継続性にも、また、驚きかつ呆れてしまいます。

さて、ということは前回フランスに行ってもう、一年経った、ということでもあります。このブログを始めたのも、肌で感じたフランスの文化の紹介と、日本とフランスの違いを、自分で書きたいと思ったからです。

で、結果はどうか?

全然フランスのことなんか書いとらんやん!ってのが至極まっとうな反応でしょうか。私も今回、久しぶりにフランス滞在中に書いた、メモを読み返していたのですが、その半分、1/3も書いてないんです。

そして一年経った今となっては、自分の中で話題として風化してしまっていて、そこから一年前の自分が語りたい、語るつもりだったことを掘り起こすのは非常に難しい。

例えば今月のタイトル。

メモにはただ「バスとメトロ」とだけ書かれているのですが、これがいったい何のことやら。一年後の自分にはさっぱりわからない。バスと地下鉄の性質比較なのか、あるいは価格、それとも他所の土地でバスに乗るのはすごく勇気がいるってことか。

いずれにせよ、一年後に遅れてやってきた私の前には「バスとメトロ」と書かれた停留所だけが残されていて、肝心のバスやメトロはすでに出てしまっていて、時刻表もない次のバスを座って待つのか、ぶらぶらと歩き回って偶然の再会に思いめぐらすのか、それは語り手の資質次第でしょう。

とまぁ、上手くまとめたようで実にしょうもない〆をして、今回はお開きです。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
Chartres のバス

2012年5月1日火曜日

大丈夫が使われる12の状況

おはようございます。

今日は「大丈夫」について。ざっと思いつく限りの「大丈夫」なシチュエーションを集めてみました。これを読めば、人生で出くわすどんなシチュエーションにも、「大丈夫」と言って乗り切れる、かと思います。

・なぐさめ(一般的)
ちょっとした不幸にあった友人に――大丈夫、次はいいことあるよ。

・なぐさめ(上から目線)
恋人と別れたばかりの友人に――大丈夫、次は良い人が見つかるよ。

・安否確認
高さ5m超の崖から落ちた友人に――おーい、大丈夫?

・安心と信頼と保証
一難去って――もう大丈夫だ。

・婉曲的な否定表現
しつこく宗教の勧誘をしてくる知人に――ありがとう、大丈夫だから。本当に、大丈夫。

・面倒な状況に対する投げやりな態度
しきりに心配する友人に――大丈夫じゃない?なんとかなるって。

・欺瞞に満ちた言い逃れ
「家に帰りたい」と訴えられる利用者に(精一杯の笑顔と)――大丈夫ですよ。

・危機的シチュエーション
頭から血を流しながら――大丈夫、大丈夫。全然大したことないし。

・強がり
GWに仕事という悲劇的状況で――大丈夫、今仕事楽しいから。

・皮肉(アイロニー)
これは着色料がいっぱいで身体に悪いという友人に――大丈夫、君の性格ほど悪くないから。

・誤ったなぐさめ Ce n'est pas une consolation.
長年付き合った彼女と別れたばかりの友人に――大丈夫、オレ、来月結婚するから。

・誤った確信
そんな装備で大丈夫か?――大丈夫だ、問題ない。

いかがでしたか?これだけ使い分けることができれば大丈夫でしょう。みなさんも是非、大丈夫とともに人生を歩んでください。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!

2012年3月6日火曜日

失うことを恐れて愛しすぎない

おはようございます。

京都から引っ越して8ヶ月、大抵のことには満足しているんですが、唯一物足りないのは、「良い古本屋」の存在。これがあんまり見つからないんですよねぇ。けっこういろいろと探索しているつもりなんですが。

この時期はやはり引っ越しの季節ということもあって、いろんな本が新たに古本市場に出回ります。普段ほとんど商品の変わらぬ店が、その品揃えを一変させていることもあり、この時期の古本屋巡りはいつもと違った店に行くこともよくあります。

私の好きな古本屋、金沢いたころによく通ったのは、片町から犀川大橋を渡ってちょっと行ったところにあった「かも書房」(だったかな?)。
とにかくセンスが抜群で、ポール・ヴァレリーの『Cahier / カイエ』が原書で置いてあって、いつかそれを買って読もうと思ってました

京都では、美大の前にあった古本屋さん。ずっと左京区に暮らしたので、他には百万遍とか一乗寺とかに行ってたけど、ここのいいとこは、美術書が安かったこと。
それで、なにげに海外文学の絶版を普通の値段で売っていたり。
閉店の前日にたまたま店に寄って、ジッドとデュ・ガールの往復書簡集を買って、なにも言わずに千円引きにしてくれたのは、いい思い出です。まぁ、まだ読んでないんですけど。
どちらの古本屋も今はもうありません。

残念なことに、私の好きな店や偏向するものは大抵閉店したり、店頭から姿を消したり、といった憂き目を見るようです。

それはもちろん、「私が好きになったから」ではなくて、「私の好きなものが崩れる間際で堰き止められているものだから」でしょう。言い換えれば、新しくも、「レトロ」と名され古さに価値がつけられてもいないもの、また言い換えれば、観光名所でも廃墟でもなく、不断に使用されているもの、あるいは使わなくなってから少ししか時が経っていないもの。そんなものに執着するのです。

「注目を浴びていないから」、「変わったものを好きになることで自分も変わった人間と思われるから」…好きになる理由はなんでもいいのですが、一度そうした関係を結んでしまうと、こちらから一方的な好意を寄せるだけで、あるとき予告もなくふいにいなくなってしまう。次に会えるのは、再び価値の水面に浮かび上がってくるときで、その時には好きになった理由に背反し、まるで別の存在のようになってしまう…。

やはりこういった事物を偏愛する際には、表題のように「失うことを恐れて愛しすぎない」といった態度がもっとも無難なのかもしれません。まぁ、その無難さを受け入れられるのなら好きになっていないのですが。
あ、これ古本屋の話です。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois! 
リヨンの古本屋さんの店先にて

2011年10月8日土曜日

坂道。このマージナルな空間

おはようございます。

いつものように更新しているような気がするのは気のせいです。

そろそろ三十歳に手が届こうかという年齢にもなると、自分自身の好み・性向がある程度掴めてくるように思います。

そんな歳になるまで…という声も聞こえてきそうですが、自分のことって意外とわからないものですよね。人の欠点ばかり目について、自分のそれには気付かない、なんてことは良くあるのではないでしょうか。

さて、自分自身の好みの話に戻しますと、最近「坂道が好きだ!」と改めて強く思うのです(改めて、というのは以前から以前から好きだったわけでして)

坂の良さはなんといっても風景の劇的な変化が味わえることでしょう。少し歩く(登る)だけで、平坦な場所ではあり得ないような変化に出くわします。それは鳥瞰的な視界の獲得であるとか、家屋のすぐ後ろにそびえる絶壁であるとか、途切れた坂の上に落ちかかっている空であるとか、実に様々です。

坂はこの世とあの世を結ぶ「あわい」の空間、私の好きな言葉では「周辺的な=マージナルな」空間です。

古代・中世には坂の途中に市が立ったことにも、坂の周辺的な性質が表れていると網野善彦氏は言い、坂の町金沢で生まれ育った泉鏡花は幻に戯れる作品を数多く残しています。

すぐそこに見える目的地にたどり着くのに、あっちに行き、こっちに行きと右往左往し、上下に昇降する身体の感じる戸惑いが、そのまま頭にも繋がっているのか、目に見えるものと身体の感じるものとのギャップ、不均衡、そして目に映るものもまためまぐるしく変化していく…。坂は非常に劇的な空間なのです。

すれ違った親子と挨拶を交わして、しばらくして振り返り、仰ぎ見ると、子供の笑い声だけが、どこからともなく聞こえてくる。どんなに人間の住む環境が変化しようとも、そこにある限り坂道は、想像力を刺激してやまない空間であり続けるでしょう。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!

街中の細い路地を進むにつれ、坂道や階段に変わっていく、そんな道が好きです。 Lyonの旧市街地にて


2011年9月20日火曜日

場所が記憶する

おはようございます。

一昨日、私用で金沢に行ってきました。

大学時代を含めて五年間を過ごした場所はやはり特別で、訪れるたびに感得される変化も含めて、懐かしいと感じさせます。

果たしてこの懐かしさはどこから来るものなのか?

見えるもの、見えなくなったもの、見たことのないものの全てが、記憶の中にある街を揺さぶり、目覚めさせるのでしょう。

ある場所に立つと、目の前に突然記憶としか呼びようのない景色が一瞬にして広がる経験は、誰にでもあることでしょう。

人の記憶の容量は限られていて、日常的に使わない情報はどんどん忘れられていきます。

そうして、一度は記憶の表層から消えたものが、その場所を訪ねることによって呼び覚まされる。

おそらくは、心もとない人間に代わって、場所が記憶しているのです。

そんな風に考えると、目に映るものすべて、聞こえるもの、感じるものすべてが自分に好意を持ってくれているような気になります。

荷物も記憶も持たずに旅に出てみよう、そうすればいつかそこに置いていった、懐かしい昔の自分とふとすれ違うこともあるかもしれません。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
なにを見てもなにかを思い出す by  ヘミングウェイ

2011年8月28日日曜日

逃亡者に勲章を――日本人の美的排斥考

こんばんは。ギリギリですが本日二度目の更新です。

独裁政権にあって忘れてはならないことは、政権下において独裁者に協力的な市民の存在があったことです。

それも、ごく少数というわけではなく、むしろ国民の少なからぬ数が、というのが適当でしょう。そうでなければ、如何に独裁という形であろうとも、政権が成り立たないでしょう。

別の時代の別の時代にある私たち(とも言い切れない気もしますが)からすれば、「どうしてそんなことが?」と考えるのも無理からぬことですが、実際事実がそうである以上、どうしようもありません。

ここでは、その心理を追求することはしませんが、代わりに表題の件について考えたいと思います。

「美的排斥」という考え方については以前のログで紹介しています(7/21 『美的排斥――言葉について(4)』)ので参照していただければと思います。
あの文章を書いて、自分でも日本人にとっての「美的排斥」とは何か、ということを考えていました。
で、個人的な見解としましては、「我慢しない(できない)」という評価ではないかと考えます。

日本人にとって、「忍耐」という言葉ほどその国民性を表している語はないのでは、と思ったりします。

もちろん私も、忍耐や我慢の肯定的側面を否定するつもりはなく、どんな仕事や学業、果ては趣味の領域でも、ある程度のところまで到達するためには成果が出なくとも我慢して続ける必要がある、と思っています(この場合の我慢は、「努力」とほぼ同義でしょう)。
しかしその一方で、我慢すること自体が美徳となりすぎているところがあるとも感じます。

自分の属している社会、会社、あるいは国が明らかに誤った方向に進んでいる(もちろん善悪の判断などそう簡単にできるものではありませんが)、そういった状況にあっても、「抵抗」よりも「忍従」することの大切さが語られる。「忍従」、これほど適切な言葉は他に見当たりません。

普通の感覚なら耐えがたい環境に耐えるために、考えることを止め、判断を停止し、命令に服従する。このような「我慢」ができない人間は異常なのでしょうか。

以前「脱走兵に勲章を」といった内容を書いた文章を読んだ記憶がありますが(曖昧ですいません)、この感覚、一般市民の勇気しか持たない、けれども思考停止に陥らなかった人間の行動を讃えるこのような考え方をこそ、新しく「勇敢さ」を測る指標として、記憶したいと思います。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
死者に対する鎮魂の思いは、形は異なれど万国共通ではないでしょうか

夏と死者のよみがえり

おはようございます。

八月も残すところあと四日となりました。早いものです。

日本の夏は死者の気配色濃い季節だと思います。今年は特にそうだったのではないでしょうか。

それでも、多くの死者を、先の戦争と結び付けて思いだすのは、終戦の記念日がお盆と重なる因果もあって、ごく自然なことだと思われます。

戦争、というとその勇敢さが多く称えられます。それは、命令に従って戦地で命を散らした場合でも、反抗という形であっても同様です。ベクトルの向きは違っても、評価の基準は同じだと言えます。

今、自分たちの国の進んでいる方向が間違っていると感じるとき、そして声を挙げて抵抗することが死と直結しているとき、それでもなお抵抗できるか、といわれると難しいでしょう。少なくとも私にとっては不可能事です。
そのような状況に置かれた勇気のない大多数の人がとるべき行動は?

そんなことを考えたのも、最近トルヒーヨ政権下のドミニカを書いた本を読んでいたからです。

ここに一人の人間がいて、その人はトルヒーヨの独裁下にあるドミニカの現状を耐えがたく思いながらも、表向きは完全に忠誠を誓っている。家族の身に危険が迫るまでは。

しかし、それでどうしたか?逃げなかった。逃げられる機会はあったのに、なにもしなかった。どうにもならないことは明白なのに、どうにかなるだろうと目をつぶって耐えていた・・・そして、悲劇。

よくある悲劇の型、おそらくは人類史上で何千回も繰り返された悲劇(それも繰り返されると喜劇になると言ったのはミラン・クンデラでしたか)。この悲喜劇の輪から勇気(=死)を持たずして逃れることはできないのでしょうか?

今回は二回に分けて書きたいと思います。では、また。
Au revoir, à ce soir!
墓地のすぐ向こうは海

2011年7月8日金曜日

草はすべて毟りつくした。よし、ブログ書こう!


リヨンで入った古本屋さん。いい本がたくさんです

・・・なんて気分になったらいいのに。

おはようございます。

前回は相当ひどい文章だったので反省しています。

今月から職場環境が変わり、慣れるのに時間がかかっています。

といっても一週間、もうだいぶ慣れてきました。

人間っていうのは怖いもので、最初はあれだけ厭だ、とか、こんなんありえへん、とか思っていたことも、慣れてしまえば、まぁこんなものか、と思い、自分でも抵抗なくやれてしまうのです。

新しい職場は職員を徹底的に管理します。

たとえば、勤務時間中は職員同士の私語厳禁です。

まぁ、それ自体はそんな大したことではないのですが、それを取り巻く環境がひどい。話していた当の本人から告げ口・密告されるのではないか、という疑心暗鬼の感情が漂っているのがわかります。休憩室に盗聴器を仕掛けているのではないかと、本気で気にしています。

比較にならないことは承知で言わせてもらうと、旧ソ連圏の人たちはこのような環境下に置かれていたのだなと、少し実感しました。

今回はフランスとまったく関係のない話でした。ソ連が出てきたところで、次回は東側から西側に亡命してき、フランスで暮らす二人の作家、ミラン・クンデラとアゴタ・クリストフについて話をしたいと思います。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!


2011年6月26日日曜日

フランスの文化と関係ないことについて

おはようございます。

いや、違うんです。ちゃんと書こうと思ってたんですよ。

ただ、友達に頼まれてFacebook のほうにアカウント登録してらブログを書くのが面倒くさくなってしまって・・・。

今のところブログの更新は、庭の草抜きの次くらいの優先順位になっています。

とりあえず写真だけチラ見せしときます。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
AirFrance の機内食。もちろんそんなにおいしいものではない。