2015年11月8日日曜日

移転します。

お久しぶりです。

前回、更新宣言をしてから、また半年ほど経過してしまいました。

その間、何をしていたかと言いますと、結構いろんなことがありました。
書きたいこともボツボツと溜まっています。

今回更新する目的は、ブログ移転のお知らせのためです。
次回より、新しいブログでの更新となる予定です。完全に移転が完了した時点で、このブログは閲覧不可の状態にさせていただきます。

新しいブログタイトルは、『Le Vent et L'Herbe / 風と草』。またしても Claude Simon 氏の小説より拝借しています。

・・・と言いつつ、新しいブログでなにをするか。具体的に決まっているわけではありません。が、少なくともこのブログよりは、より読みやすい文体、内容を意識したいと思っています。

新しいブログのアドレスは、http://a-nancy2.blogspot.jp/ です。現時点では場所だけとっている状態ですね。

それでは、みなさん。次に会うときまで。

Au revoir et a bientot !

2015年5月13日水曜日

再開 / 最下位――借金11、首位ファイターズと8.5ゲーム差

お久しぶりでございます。

半年ばかし、更新を怠っておりました。今月より再開したいと思います。

なんですが、まずは記事の書きためをすることにします。なので、定期的に更新できるようになるには、もう少し時間がかかりそうです。ある程度の分量が溜まれば、ボツボツ、とブログにあげていこうと思います。

それでは、また近日中に。

Au revoir et a bientot !


2014年10月18日土曜日

稲葉のいた日本ハム、谷のいなかったオリックス。

秋の風が吹くと、今年のプロ野球シーズンも終わりだなぁ、と感じさせられます。

残る4チームで熱戦が繰り広げられているCSファイナルステージ、その一方で惜しくも「あと一歩」が届かず、一足先にシーズンを終えたオリックス。

少し時間が空いた今だからこそ、CS1stステージ最終戦を振り返ってみたいと思います。

本当に紙一重の差で日本ハムに敗れたわけですが、敗因はなにか。一素人ファンが勝敗を分けたポイントを、勝手に批評していきます。

1.第一戦で松葉&中山を僅差ビハインドで試せなかったこと
延長10回、イニング跨ぎの平野が打たれ敗戦したわけですが、たとえそこを乗りきったとして、11、12回はどうしたのか?比嘉が2イニング?森脇監督の信頼度からして、一番現実的な判断だと思います。
その一方で、もとより少ない左の中継ぎを、一度も試さなかった(第一戦、中山は1/3投げてますが)ことが、「信頼度の高い選手から逐次投入」せざるを得ず、結果として追い込まれていった要因ではないかと。ファイナルを見据えた場合でも、敗れた一戦目にこれができなかったことは大きいと思います。

2.稲葉がいた日本ハム、谷のいなかったオリックス
ここぞの場面で出せる代打の切り札がいた日ハムと、それがなく、ほぼスタメンのみで戦わざるを得なかったバファローズ。この差が日ハムは6回表1死1,3塁の場面。大引への代打稲葉がコールされ、5回裏1死満塁でこのシリーズ、決して調子が良くない安達に対し、代打谷を出せなかったバファローズとなってしまいました。

3.チームの勝負勘のなさ
シーズンを通して、これがついて回りました。「ここぞ」の場面で打てない打線、打たれてはいけない場面で打たれる投手陣、絶対負けられない試合に負けるチーム…。セ・リーグを制した巨人が、個々の力は十分に発揮できずとも、絶対に負けられない試合はすべて拾っていたのとは対照的でした(その巨人も、CSファイナルは崖っぷちに追い込まれていますが)。

まぁこれらのことを糧に、来年はもっと長い期間オリックス・バファローズの応援をさせていただきたいと思います。

Au revoir et à bientôt !



2014年10月14日火曜日

オリックス・バファローズの2014年が終わった。

2014年のオリックス・バファローズの戦いが終わりました。

シーズン最初に見せた快進撃から、終盤のホークスとの激闘(譲り合い)まで、長く楽しい一年も今日で終わりです。

最後は延長10回、回跨ぎの平野佳が中田にソロホームランを打たれて終戦。今年のオリックスを象徴する、2-1の接戦を落としたゲームでした。

今年は8回観戦に行き、4勝4敗。決して好成績ではありませんでしたが、十分に楽しい試合を見せてもらいました。

シーズンもクライマックスシリーズも、あと一歩、最後の一押しが足りなかった今年のチーム。今から来年のことを話すのは早計でしょう。

とりあえず、オリックス・バファローズに関わっているすべての方々、一年間お疲れ様でした。

Au revoir et a bientot !
CS第一戦。エース金子千尋が先発も、3-6で敗れる


2014年8月22日金曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 6/6 ――『彼方なる歌に耳を澄ませよ』

何年ぶりかにマクラウドの作品を読み返す。辺境の国カナダの、更に辺鄙なところに位置する、ケープ・ブレントン島。その地で暮らすスコットランド系移民の末裔たちの日々の暮らしを、脚色なしで(もちろんこれは言いすぎだ)描き出す。21世紀日本からはひどく遠い、土地・時代・文化の物語。

たとえば前回の『ペルソナ4』が現代日本を反映したものだとすれば、これは移民の時代(18世紀?)から1970年代まで続く、一族の物語だ。舞台はカナダ、日本からひどく遠い国の出来事だ。

カナダは、遠い。この計り知れない距離感はどこからきているのだろう?カナダのことをなにも知らないから?といって、日本の一般市民がカナダについて、どれだけのことを知っているだろう?国旗にカエデのマークが用いられていること?アメリカの北に位置すること?他には?大統領が誰かすら、そもそも大統領職があるのかすら、定かでない。もしかすると王様が国を治めていたりするかも?

これだけ遠い国の、本土から離れた島の話だ。当然日本人にとっては近づきがたいものに思える。だが、マクラウドの描くカナダの生活は、近い。場所も時代も大きく異なる物語が、これほどまでに人をひきつけるのはなぜなのか。

簡単に言ってしまえば、物語の持つ普遍性というやつなのだろう。だが、この説明だけでは不十分な気もする。普段全く自覚的でない、他者との共通点を認めたからといって、それで親近感を抱くのか?そもそも差異こそを好む時代に生きているのに、共通点をあげつらって、喜ぶ奴がいるだろうか?

だからたぶん、これは差異を理解するための物語だ。『彼方なる歌に耳を澄ませよ』の冒頭に現れる語り手とその兄はまだ、自分たちとさほど離れたところにあるわけではない。彼はアル中で、酒を飲んでいないと手の震えが止まらない。そんな兄にどんな風に接すればいいのか、歯科医となった語り手にはわからない。

彼らの背景が描かれるにつれて、違いは明らかになっていく。彼らが一人の個人としてよりは、一族の中の一人として生きてきた歴史。そして、その歴史的背景が生んだ悲劇。それらはみな、現代日本では存在しない空想上のバックボーンだ。

おそらく現代に悲劇が生まれ得ないのは、こうした歴史的背景の喪失も関係しているのだろう。もはや現代において、フォークナーは生まれない。確定的に明らかなことだ。持つものと持たざるもの、それぞれの良し悪しが、マクラウドの本を21世紀の日本で読むことの意義だ。

最後に、冒頭に書いた文章、今の私ならカナダを「周縁の」国とするだろう。日本もまた、同様だ。大国の周縁にある国がどのように身を処すか。ひどく政治的な問いで、私には身に余る。ここで手を引くとしよう。

Au revoir et a bientot !


2014年8月16日土曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 6/5 ――もう一度、ペルソナ4

ようやくクリア!100hくらい費やしたが、これはなかなか大変なことだぜ(一生懸命フランス語をやったと言える月でも、50~70hくらいがせいぜいなのに)。大概のゲームは、それに費やした時間をはっきり無駄だと思うのに、今回はなかった。たぶん人生初の、ゲームをやって有意義な時間だった。

ベタ褒めしすぎか、いやいや、そんなことはない。それだけの価値のあるゲームだった、少なくとも私にとっては。前回紹介時はだらだらと書いてしまったので、今回はさくっと済ませよう。

1.コミュニケーションをとることで強くなれる
2.時間の一回性
3.攻略本ありの人生はつまらない
4.自分の弱さを受け入れるための物語

1.コミュニケーションをとることで強くなれる
作中に登場する人物には「コミュ」と呼ばれる関係があり、主人公は彼らと一緒に時間をすごすことで、絆を深めることができる。彼らにはそれぞれアルカナ(タロットカードの「隠者」、「戦車」といったもの)が割り振られており、コミュランクが上がったアルカナからは、より強力なペルソナを作り出すことができる。コミュランクを上げることが、強敵を倒すための近道なのだ。それにしても、主人公のコミュ力はすさまじい。

2.時間の一回性
一日に行動できるのは2回、放課後と夜だけに限られている。それぞれでできることできないことがあって、ダンジョンに入るなら他の人と一緒にすごすことはできないし、勉強やアルバイトをあきらめなければならない。なにかを得るにはなにかを捨てなければならないのだ。

3.攻略本ありの人生はつまらない
ネットで攻略サイトを見れば、どうすれば完璧にコミュをマスターできるのか、会話中の正しい選択肢まで教えてくれる。そうすればゲームシステム上は完璧な人生を送ることができる。でも逆に、つまらない人生になってしまう。結末のわかっている推理小説のように。

4.自分の弱さを受け入れるための物語
ペルソナとはもう一人の自分。日常生活で決して覗き込むことのない、自分自身の暗部だ。誰にでもあるそうした弱さやいやらしさを、否定すれば暴走し、受け入れることができれば自分の力となってくれる。ありふれたテーマだとしても、そうした弱さを主人公やその仲間の高校生にだけ認めるのでなく、周りの大人たちもまた、例外なく秘めていて、向き合うことができていないことを明らかにしている、という点が素晴らしい。

子どもの頃には、「大人になったら」という言い訳が使えた。大人になった今、それはもう使えない。時間は弱さや愚かさを解決してくれず、むしろより解きほぐしがたい、絡まり合った難問として心の隅に置かれてある。自分の弱さと向き合わなければ、どんどん自分が自分でなくなっていく。だから人は嫌でもそれに立ち向かう。大人になっても、認知症になっても、死の間際までも。これは、英雄になれない凡人が生涯を通して挑む、最大の戦いだ。

それは困難でありながらも、少し楽しくもある。

Au revoir et a bientot !

2014年8月11日月曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 5/27 ――コミュニケーション入門

危険を感じると、人は心を閉ざしてしまう。自分とのコミュニケーションに安全・安心を感じてもらうためには、その人が大事にしてる価値観に共感する必要がある。

コミュニケーション、一言にいっても容易くはない。自分ではない他人と、意見や言葉を通わせることだ、一筋縄ではいかないことは容易に察せられるはずだ。

実際には、人はそれほどコミュニケーションを問題視しない。空気ほどにありふれており、習熟とは縁遠いものと思われているからだ。結果的に、巷にはミスコミュニケーションがあふれかえる。伝えたつもりなのに伝わっていない、自分の言っていることがなぜか理解されない…誰にでもなんかしら思い当たることはあるはずだが、だからと言ってそうそう改善しようと思わないのが、人間だ。「相手が悪い」と自分の非を棚に挙げて、人の悪いところにばかり目が言ってしまう。

コミュニケーションを仕事の中枢に据えていると、そうでない人よりほんの少し、その難しさを感じる機会が増える。認知症の方はおろか、普段何気なく接している一般の職員とも、良好な関係が保てているか、怪しく思える。

そんなふうにコミュニケーションについて改めて学んでいる最中だったから、なおのことペルソナ4に深くのめりこんでしまった。「いろんな人と関係を深めることが、自分の力になる」という哲学に基づいたシステムは、そのまま社会の反映となる。なお、あまりに深くのめりこんでしまうと、社会そのものから離れて、ゲームの世界に閉じこもってしまう模様。

コミュニケーションの要点は、「この人は私の話を聞いてくれる」と相手に思わせることだ。もっと言えば、「私を受け入れてくれる」存在になることだが、口で言うのは簡単でも、実行するのは難しい。そらそうよ。誰もが大海のように広い心の持ち主ではない。

私のような狭量な人間でも、継続してコミュニケーション技術を磨くために、必要なことをメモ代わりに書き残しておこう。

上述のように、相手にとっての「受け入れてくれる」存在になる、一番のポイントは、聞き上手になることだ。そのためには質問力が求められる。どんな質問を、どのようにするかで、その人との関係が決まる。

尋問にならないことが大切だ。言いかえればこれは、「自分の聞きたいこと」ではなく、「相手の喋りたいこと」と質問することだ。そのためには相手のことを良く知らなければならない。表情やしぐさは勿論のこと、普段相手がどのような言葉を使っているか(視覚的か、聴覚的か、触覚的かなど)や、どの言葉に重点を置いて話をしているか、など。

そしてその感覚や感情に自分の気持ちをあわせる(ペーシング)こと。そうすることで、相手は共感されている、と感じられる。キーとなる単語を繰り返すことは、簡単だが効果的な方法だ。

だから何度でも繰り返そう。同じような主題、同じテーマの文章を、違った時期、違ったスタイルで書くことで、自分自身への理解を深めることができるから。人によってはそれを読んで、私のことを理解しようと思ってくれる人もいるかもしれない。そんな儚い思いを抱きつつ、次回再度ペルソナ4いついて書く。

Au revoir et a bientot !

2014年8月10日日曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 5/16 ――ほっともっとフィールドに行こう!

※ お客様はファウルボール等がお体に当たらない様常時ご注意ください。お子様連れのお客様は特にご注意下さい。

岸田投手、2014年最後の先発登板も、はかなく散る。
初回を0点に抑えるも、その後テンポよく失点を重ね、5回で3,4失点して降板。打線も昨年と同様の反発力のなさで、なすすべもなく敗れた試合。まるで、4/9の対ロッテ2回戦のようだった。この日も先発は岸田。この日までの私の観戦成績は0勝3敗と、散々なことになっていた。

この日を境に岸田は中継ぎに配置転換、主に僅差ビハインドの試合で好投を見せてくれている。以降今日まで一度も先発として投げていない。

あ、ごめん、よくよく考えたらこれ、5/1 の試合ですわ。5/16はエース金子が先発し、首位を争うソフトバンクに完勝した試合。OSAKA CLASSIC と題して、両チームが近鉄と南海のユニフォームを着て試合をしたんだった。Tシャツを貰ったので良く覚えている。

そんなわけで、「書かれなかった過去を振り返ろう」シリーズ、通称KKKシリーズは3回目にして早くも当初決めた約束事を破ったわけだが、それも記憶の成せるワザと、諦めるのが容易だろう。オレはなんも悪くねぇ!

話を野球に戻そう。
よく、「どうしてオリックスがすきなの?」と聞かれるが、およそ求められる答えに行き着いたことがない。たぶん、「~選手が好きだから」とか、「友達(あるいは父や兄弟)がファンだったから」とかいった答えが求められているのだろう。

残念ながら期待にはこたえられない。いつもそうなのだ。自分にとっては当たり前の考えが、多くの人には異常に映る。それゆえについた嘘が、より自らの立場を危うくする…。人は因果、理由を探す。たとえそれが荒唐無稽なものに見えても、「理由なく」ファンになったとのたまう男に比べると、危険ではない。ある日突然、「よし、オリックスを応援しよう」と思ったなんて、誰に言ってもバカにされる。

だから誰にでも通用する理由を探そう。後付けだとかそうじゃないとか、そんなことは問題じゃない。「どうしてオリックス?」と、半笑いで聞いてくる阪神ファンの目を見てこう答えよう、「オリックスの、寄せ集め集団なところが好きなんです」と。

プロ野球の世界でもてはやされる「生え抜き」という思想に、これほど染まっていない(しかし無縁ではない)チームも珍しい。強くなるために、血の入れ替えを積極的に行う。成績を残せない選手はどんどんと首になる。だが、セ・リーグの金満球団のように、金でかき集めようにもお金も、人気もない。オリックスに来たがる一流選手など、聞いたことがない。

結局、チームにはあぶれ者ばかりが集まる。能力はあるが契約交渉でもめたもの、結果を残しながら生え抜き主義に押し出され、チームを追われたもの、そもそもチャンスが与えられず、戦力外になったもの、はたまた誰かの「おまけ」として、複数トレードでやってきたもの…。そもそも、チームの成立過程からして、近鉄とオリックスとの歪な合併という、誰も得しない経緯がある。

そんなオリックス・バファローズが私は好きだ。どの選手にもなんらかの因縁があり、物語性がある。選手も監督も、果ては球団までも、みんなよそ者。どちらを向いても敵敵敵…。いや、そもそも敵としてすら認められていないかもしれない。

そんなチームが今年は大正義、ソフトバンクホークスと首位争いを繰り広げている。8/9 現在、首位と4ゲーム差の2位につけている。去年は平均10000人くらいだった観客数が、今年は20000人を超えている。実に二倍。関西の阪神人気を苦々しく思っている人が、こんなにもいるんだぜ。

頑張れ、オリックス・バファローズ。男なら、ドカンとぶつかり星となれ。どんな結末になろうと、その散りざま、とくと見届けてやろう。

Au revoir, et à bientôt !

2014年8月9日土曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 5/6 ――世界の果ての通学路

すごく良いドキュメンタリー映画。「日本に生まれた幸せ」ってよく言われるが、普段実感することはなかなかない。これはそれを感じさせてくれる貴重な映画だ。


学校に行くために、毎朝ゾウに襲われる危険を冒しながら、アフリカの赤銅色の大地を駆ける二人の兄妹がいる。妹と共に馬に乗って通学する、アルゼンチンの12歳の少年がいる。ボロボロの車イスを押して、泥道や川を越えるインドの三人兄弟や、週末だけ家に戻り、週の始めには22kmもの距離を歩いて通学するモロッコの少女がいる。

日本にはない地形、風景。野生のゾウやキリン、サイが利用する同じ道を通って、兄と妹は学校へ走る。ときに野生動物の襲撃を恐れ、岩肌をよじ登って遠回りをし、あるいは草むらに身を隠す。そんなところにも学校は存在するのだ。まず、そのことに驚く。

週に2回、少女は学校までの道のりを歩く。22km、石ころだらけの山道を、近くに住む二人の友達と一緒に。何時に起きる必要があるのだろう?5時にはもう、両親の住む家を離れ、学びの宿舎に向かっている。

馬なんて、日本ではもう神話的生き物だ。街中で見ることはまずない。それはイベント、祝祭的な動物だ。アルゼンチンの12歳の少年にとって、馬に乗ることは日常だ。小さな妹を連れて、馬に跨り、学校に向かう彼の姿は、日本に住む私には少年神のように見える。

インドでは、まだ日本的にも見慣れた光景がある。3人の兄弟が電柱の並ぶ道(そういえば、最近では電柱もあまり見なくなった気がする)を、車椅子を押して進む。
長男は脚が悪い。でも二人の弟は兄のことを誇りに思う。だって彼は勤勉で、頭がいいからだ。自慢の兄を、二人は毎朝車椅子に乗せていく。舗装されていない道を行くことは困難だ。彼らにとって通学は、毎日冒険だ。

映画だから描かれていない事実もある。同じように苦労して学校に行っているからといって、みながみな彼らのように勤勉で意欲的に学んでいるわけではない。それは映画の外にある事実だ。パンフレットではその事実は隠されていない。

映画に映る彼らはみな、まぶしい。自分の勉強が、未来に繋がっていることを強烈に信じている。それは、今の日本にはない。選択肢の多様さが、活力を奪っている、という面もあるように思う。

学校は嫌いだった。でもこの映画の、喜びを全身から発散する子どもたちの姿を見ると、あらためて、学ぶことは止めないでいようと思う。もう学校に行くことはなくても、図書館へ、書店へ、職場へ、世間へ、学びに出かけよう。馬の代わりの自転車に乗って。

Au revoir et a bientot !

2014年8月8日金曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 5/2 ――アンドレアス・グルスキー展

ミニマルミュージックの視覚化された表現。写真界のスティーヴ・ライヒ。

大阪の国立国際美術館で2/1~5/11まで開催。チケットには「これは写真か?世界が認めたフォトグラファー、日本初の個展」の文。

郊外のアパートメント、油の浮いた川面、100均に並んだカラフルな商品...日常的にありふれた風景が、彼の手(いや目か?)にかかれば、一瞬にして不自然な、見慣れぬものに変容する。

資本主義に対する皮肉を読み取ることもできるだろう。でもそんな政治的意図を抜きに見たほうが美しい。同じもの(郊外の窓、100均の商品)が微妙な差異をもって反復されるとき、あるいは微視化/拡大視化されて、普段目に入らないものを無理やり可視化される(油の浮いた川面や、高高度から見下ろした大洋)とき、僕らは日常に潜む美しさを知り、少しだけ謙虚になる。

でも、その美しさは現実ではない。これらの写真の面白みは、どの写真も写真家自身によって、手を加えられていることだ。

そこに展示されているのは、「あるがままの」現実ではない。まして写真家グルスキーが切り取った/見た 現実でもない。彼が創り上げた芸術作品なのだ。

当たり前のことを言ってるだろうか?そうかもしれない。だが案外、人は写真や絵画の中にリアルを見るものだ。客観的な現実は今更求めないにしても、少なくとも主観的な現実ではあってほしい、と願う。この美しさが全部うそだなんて、耐えられないよ。

リアルをベースにした空想。その、リアルと空想の曖昧さが、観る人に錯覚を生み出す。その錯覚に自覚的であろうとすればするほど、境界線を見分けようとして、グルスキーの罠に絡め取られる。もう、逃げられない。グルスキーの描く現実と空想は、ダニエル・カーネマンの提示する記憶する自己と経験する自己の関係に、奇妙なまでによく似ている。

確かなのは作品とそれを飾る壁のあいだの境界だけではないのか?だがそこにも幾ばくかの不安が付きまとう。もしやこの壁すらも、グルスキーによって創られた、作品の一部ではないだろうか?そして今を生きているこの私も、記憶に裏打ちされていない、忘れ去られる現在時ではないだろうか?

Au revoir et a bientot !

2014年8月7日木曜日

書かれなかった過去を振り返ろう

人間は経験する自己よりも記憶する自己に固執する。

誰の受け売りかって?2002年ノーベル経済学賞受賞のダニエル・カーネマン。彼は人間にとっては経験そのものよりも、その記憶のほうが大切だと喝破した。

そのための思考実験として、カーネマンは次のような例を挙げる。

休暇の終わりに、撮影した写真やビデオをすべて破棄するとします。さらに、休暇の記憶をすべて消してしまうような薬を飲むとします。
事前にこれらのことがわかっている場合、あなたの休暇のプランに影響はありますか?
記憶に残るふつうの休暇と比べた場合、記憶が消失される休暇にいくら払いますか?

カーネマンの結論によると、記憶の抹消は経験の価値を大きく損なってしまうようだ。ある人は記憶がなくなってしまうなら、わざわざ出かける必要はないという。気持ちはよくわかる。ところで、経験と体験の違いってなんだろう?

4月末からブログをほとんど更新しておらず、ブログの開設三周年を自分で祝う機会も逃してしまった。その間、いろんな場所に行って、いろんなものを見聞した。その記憶を、手帳に残された僅かな手がかりをもとに、再構成する。そんな企画を今月はやろうと思う。経験した自己を、記憶する自己に変容させるのだ。

以下のようにルールを定めよう。
・ 5月~現在までの手帳に残された記録を元に、時系列で書く。
・ 本や映画の感想は、その本を読み返さず、残っている記憶と記録だけを頼りに書く。
・ 自分の残したメモを引用する――自己引用の悪癖!

次回は、アンドレアス・グルスキー展(5/2)について。

Au revoir et à bientôt !
2014年の手帳。ボールペンはuni のJETSTREAMを愛用。

2014年7月1日火曜日

青春をやり直そう――ペルソナ4の誘惑

ペルソナ、面白かったっすわー。

ゲームって私にとっては時間つぶしに過ぎなくて(そもそもが年に1度やるかやらないかのライトユーザー)、大抵はやったあとに、「うわ、こんなことに時間使ってもうた」と、自己嫌悪に陥るんだけど、これは例外。つまり、傑作。

なにがズドンと来たかっていうと、それはこのゲームで「青春をやり直す」ことができるからだ。それも、毎日何時間も飽きずゲームに向かっていた、冴えなくてそこそこヘビーなゲーマーだった、そんな青春じゃないのよ。

もちろん、人生のリセットボタンを押せるわけじゃない。たぶん君の人生に、セーブポイントなんてなかっただろう?そういうことだ。誰だってわかっている。でも時に人は、「もしあのときああしていたら…」とか「今の自分が高校時代に戻ったら…」とか、しょうもない想いを抱いて、煩悶する。しゃーないやんか、だって人間だもの。

そんな限りなく後悔に近い願望を、実現してくれるのだ。どうしても感情移入してしまう。ゲーム上のかりそめの姿とはいえ、君は信頼できる友人たちやたくさんの恋人候補(最大で6股が可能!)に取り巻かれ、スポーツも勉強も万能だ。加えて勇気は豪傑並みで、その根性はタフガイと賞賛され、オカン級の寛容さを持ち、知識はまさに生き字引、言霊使いと呼ばれるほど言葉巧みに人を惑わす君は、挙句のはてに世界まで救ってしまう。そんな誰もがあこがれるスーパーヒーローになれるのだ。

リアリティに欠ける?別にええやん?だって、ゲームだもの。そこは割り切ってもいいでしょ。ゲームにまでリアルを求めてたら、ちょっと息苦しすぎる。世界の平和を守ろうとしたら、ラスボスを倒す前にまず、貧困をなくさなアカン。

君は都会から片田舎に転向してきた高校2年生だ。これから一年間、その町で暮らすことになる。目の前には霧に包まれた謎と、様々な可能性を秘めた時間がある。その時間をどう使うか、それは君の自由だ。

このゲームの一番面白いところは、攻略を見てしまうと面白さが半減してしまうことだ。効率よくイベントを進めるための方法が、ネット上で探せばすぐに見つかって、会話ではどの選択肢を選べばいいか、何月何日にはなにをすればいいかが一目瞭然だ。結果として、君の人生はスケジュールに縛られ、人と心を通わせる際の機微は失われる。

そしてそれは、前述の「もし今の自分が高校時代に戻ったら…」という願望への答えでもある。答えのわかっている選択肢を選んでいくほど、つまらない人生はない。今のこの、ろくでもない人生で、泥にまみれてジタバタするほうが、きっと100倍も面白い。

Au revoir et a bientot !

追記:ゲームシステム上ですげえよくできてると思ったのが、「他の人と交友を深めることで、強くなる」システム。本を読んだり、勉強したりも大切だけど、友達や知り合った人たちとの絆を深めるほうが、自分のためになる。書いてしまえばありふれた発想だけど、それをこれだけ上手く納得させることは、普通できない。調べてみると、前作ペルソナ3も同様のシステムを採用しているそう。実は高校生の頃に、初代ペルソナをやってたのだけど、当時はそんなシステムはなかった。あれから10年以上、ゲームも進歩するものだなぁ。

追記2:久しぶりに書いているので、文体がわちゃくちゃ。これも個性だ、とかいう風に、いい風に受け取ってもらえれば、幸い。

2014年6月30日月曜日

ペルソナ漬けの一ヶ月

4月末から6月頭まで、約一ヶ月に渡ってPS2のゲーム『ペルソナ4』をやっとりましたよ。

そんなわけなので、5月にブログの更新が出来なかったのは致し方ないとしても、6月も一回もしてないってどうよ?

そもそもが個人的なブログで、閲覧する人の数もしれてるし、たかが1、2ヶ月更新をしなかったところで、誰かの迷惑になるわけでもないし…。中途半端に書き残した記事が、新たな記事を作る邪魔だてをし、どうでもいいやと投げやりな感情が、それに拍車をかける。新しい記事を投稿したのでもないのに、勝手に増える  view 数が、誰かが読んでくれている、という幻想を、これ見よがしに打ち砕く…。

とまぁ、ゴタゴタと書きましたが、今日から再開です。今後も一定期間書いては休止し、を繰り返すことになるでしょうが、どうぞよろしく。

次回は、そのペルソナ4のお話から。

Au revoir et à bientôt !

2014年4月25日金曜日

バリアフリー 2014

ガルシア=マルケス死去のニュースを聞いてから、追悼文を書こうと思いつつ、早一週間。もうちょいしたら書く予定なんで、もうしばらくのお待ちを。

久しぶりに福祉の話題を。

4月の17、18、19と大阪のインテックス大阪ってところで、「バリアフリー 2014」なる展覧会が開催された。職場の同僚に勧められて(ごり押しされて?)、片道1時間半かけて行ってきたのであります。

このいかにも福祉してる名前の通り、様々な福祉用具が展示されていたのだけれど、そんなん関係なしに面白い。展覧会ってやつのお祭りの雰囲気ムンムンで、出店がたくさんあって、出展者は売る気満々で、「福祉」よりも「資本主義」を強く感じる現場。これまでの福祉にはない、「金を稼ぐ」ことを前面に出したこの空間に、好感を持った。

個人的に一番印象的だったのは、ベッドや車椅子の進歩よりも、そうした企業の本気度具合だった。いやー、トヨタやホンダが本気できとるやん。食品業界でもキューピーなんかが参入してきていて、これからの福祉業界にどれくらい金が入ってくるか、まざまざと見せられることとなった。

こんな風に競争が激化すれば、これまで法外な値段設定をして安穏としてきた、福祉用具業界の尻に火がつくだろう。消費者としては、ありがたい限りだ。その一方で、これだけ大企業が進出してくると、中小の企業にはかなり厳しいだろう、と推測も立つ。まぁ、多少事情が異なるとはいえ、介護の現場も他人事ではないだろうが。

団塊の世代が高齢者になって、福祉も新しいフェイズに移行したなと感じる。これまで社会の一隅に押し込められてきたものが、社会の中心に位置する。人口における高齢者の割合を考えたとき、これは当然の動きだろう。この動きがどこまで加速していくか、注目したい。

その一方で懸念もある。同じ福祉に属していても、身体障害者や精神障害者はこの流れの恩恵を受けられるだろうか?これまで以上に社会から置き去りにされないだろうか。高齢者福祉に携わる身でありながら、そんな危機感と不安がぬぐえない。

それにしても…どんだけ「福祉」言うねん!

Au revoir et a bientot !


2014年4月24日木曜日

スペインと昭和の貧しさ

今って平成何年だっけ?24年、それとも25年?え、26年?ha ha ha 、面白い冗談だ。

なんにしろ、これは確かだ。もうしばらく前から新入社員は平成生まれが当たり前で、昭和生まれの新卒なんて、ほとんどいない。そして、これからこれからもそうだ。時間の逆行はありえない。昭和を経験したものはみな、若者でなくなってしまった。昭和生まれの若者なんて、もういない。

昭和が街から消えてどれくらい経つのだろう?昭和50年代後半に生まれた私が、正確に測ることはできない。私の中に残っているのは、昭和の汚さだ。平成はキレイだ。潔癖に近い清潔さに私はしかし、少し居心地悪く感じてしまう。

時代の大きな転換点、というものは実際にあって、日本ではそれが1950年代後半(昭和30年代)に訪れた。家電の三種の神器と呼ばれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機の登場は、人々の暮らしを根底から変えた。

どれぐらい変わったかって?応仁の乱(1467-1477)以来、大きく変更されなかった生活様式が変わったのだ、といえばその激変ぶりが理解できるだろう。人々が使用する道具は、幾度も改良が成されたとはいえ、基本的に同じものだった。これはつまり、1950年代の主婦が1500年ごろにタイムスリップしたとして、多少の戸惑いはあるにしても、普通に生活できるということだ。これってすごくね?

平成と昭和の境目が、これほどの大変動であるかは、後世の検証を待つ必要があるが、小変動であったのは確かだ。平成生まれが昭和に戻って生活できるか?平成生まれを貶すのでなく、それだけの変化があった、ということだ。

ミゲル・デリーベスの『ネズミ』を読んだとき、同じような時の断絶を感じた。

舞台は1955-56年のスペイン。カスティーリャ地方の一寒村。石ころだらけで作物もまともに育たないこの土地で、主人公のニーニ少年は、おじさんの「ネズミ捕り」と一緒に洞窟で暮らしている。川のネズミを捕って生計を立てている彼らの生活のみならず、他の村人たちの暮らしもおしなべて貧しい。村には電気もガスもなく、あぜ道を未だロバが闊歩している。そのロバでさえ、特権者の証だ。

死が暮らしのすぐそばにあって、その暗い深淵を覗かせている。人々はそこを覗き込み、自分のほうを見つめ返す深みからの眼を感じながら暮らしている。現実からは目を背ける。他に方法がないからだ。その局面を打開するための、財も、策も、才覚も、なにもない。貧に縛られ、人々はただ、死に頭を食いちぎられるのを待つ。それすらも救いの一種だと捉えかねない諦念とともに。

このような貧しさは、現在の日本では見られない(おそらくはスペインでも)。先進国では貧しさは、別の次元に移行した。全員が平等に叩き落され、よじ登る見込みのない底なし沼のような貧困から、やっかみと嫉妬の渦巻く、ところどころに開いた落とし穴に。落とし穴に巻き込まれる途中幾度も、普通の暮らしをおくる人々の姿が見えて、それがいっそう自分の陥った悲惨に自覚的にさせられる。人は他人をひがみ、自らを卑下する。現代の貧しさは心を蝕む。『ネズミ』はそれ以前の、貧しさの中にも高貴さを保った人が(も)いた、そんな時代の物語だ。

Au revoir et a bientot !

2014年4月19日土曜日

ラテンの鎧を着たケルト

「ケルト」ってなによ?そんな大風呂敷を広げても、答えられるはずもない。ケルト音楽にケルト神話、ケルト文化…これだけ繰り返しても、明確な輪郭は掴めず、むしろケルトがゲシュタルト崩壊してしまう。

そんなら一日本人にとって「ケルト」ってなによ?というのが、今回紹介する『スペイン「ケルト」紀行』。内容は正直、薄い。スペインのガリシア地方をめぐる旅行記を書きたいのか、それともスペインに残るケルト文明についてスポットを当てるのか、曖昧なままいたずらにページが費やされる。

だが、それでいい。そもそもヨーロッパは混血ありきの大陸であり、「純粋な」血統なんてものは、ないに等しい。それがゆえに王族間で血を純に保とうとする働きがあったのだろう。そんな大陸で、ケルトの源に遡ろうとするのは、そもそもが無謀な試みだろう。

純粋なケルトも、神話に過ぎない。ケルト文化に魅せられ、ヨーロッパ各地をめぐってきた筆者は、ガリシア地方に残るケルト文化を、「ラテンの鎧を着たケルト」と、道中に出会った人の言葉を借りて表現する。だが、実際のところどうなのだろう?立派な鎧をまとってはいるが、その実中身はからっぽだった、なんてこともあり得るのではなかろうか。

イタロ・カルヴィーノが書いた『不在の騎士』。戦場で勇猛果敢に戦うこの騎士、中身は空洞だった、という話。反・騎士道小説であり、はたまた騎士の中身が女性だった、という反・反騎士道小説でもあるこの寓話。なんにでも中身があるわけではないのだ。

「ケルト」という言葉についてはどうだろう。一見、非常に独自な文化が残っているように見える。ケルト音楽と聞くと、あのいかにもアイリッシュな音楽を思い出すし(これ以上に表現が見つからない)、ケルト神話に出てくる妖精の類は今も、子どもたちの想像を掻き立てる。

それは、それでいい。だが、それを絶対視し、他文化からの影響を全く認めない、となればもはやその本質を失ってしまうだろう。どの文化も別の文化か大なり小なり影響を受けている。とりわけヨーロッパという極小の大陸にあって、他からの影響を免れることは不可能に近い。それを認めたうえで、ケルト文化を主張し、享受すること。人と人との関係のように、そうすることではじめて実りある関係を築くことができる。

他者からの影響を否定し、自らの独自性ばかり主張していたら、自分が空っぽになってしまう。己という存在が、他人の声や影響だけで成り立っていると認めるのが虚しい?別に、それでいいんじゃない?立派な鎧を自慢するのも、またひとつの生き方だ。

Au revoir et a bientot !

2014年4月12日土曜日

ヴァンセンヌの新しい動物園

もっと野生的に、もっとディズニーランドから遠く離れて。

4月12日、5年間の改修工事を経て、パリ近郊の都市、ヴァンセンヌの動物園が再開する。

約15ヘクタールの土地は大きく5つのゾーンに区分けされている。パタゴニア、スーダン、ヨーロッパ、ギアナ、マダガスカルの5つだ。それがさらに細かく180に分類される。

注目すべきは、その「展示」方法だ。

20世紀の動物園の目的は「コレクション」だった。博物館や美術館と同様に、動物園もまた珍奇なもののコレクションとして、より多くの動物を見る=鑑賞することが優先された。

21世紀の動物園が目指すところはなんだろう?日本では北海道旭川市の旭山動物園が有名だ。行ったことがないので、具体的に語ることはできないが、ニュースなどで見た限りでは、いかに「見せる=魅せる」かに重点を置いているように思える。動物園もエンターテイメントのひとつとして位置付けようという試みだ。

一方、ヴァンセンヌの動物園において、動物たちはより自然な環境に身をおく。そこでは動物が本来生活している環境をできる限り再現している。ゆえに欠点もある。入園者たちは動物を探さなければならず、もしかすると見えないこともあるかもしれない。それでいいのだ、というのがヴァンセンヌ動物園の考え方だ。

園長のThomas Grenon 氏の目的は、動物園をただの娯楽施設でなく、教育の道具とすることにある。来園し、限りなく自然に近い環境で暮らす動物たちを見て、自然保護の必要性を自覚する。そうなれば素晴らしい、と彼は言う。

どちらがいい、悪いの話ではない。ただ、これからの動物園はより差別化されたものが必要だ、ということだ。もちろんそれは、動物園に限ったことではない。植物園や水族館などの公共施設しかり、遊園地やデパートなどの民間施設しかり。そして、ブログのような個人的情報発信サイトも、また。

Au revoir et a bientot !

2014年4月11日金曜日

人間は考える葦だなんて、パスカルに言わせておけばいい――『ブラス・クーバスの死後の回想』

これが19世紀の小説かよぉ!反・物語の意識を強く持ちながらも、ちゃんと小説してる。20世紀の小説が求めたものがここにある。この作品がこれまで日本で紹介されてないって、どうよ。

『ブラス・クーバスの死後の回想』は傑作だ。発表は1881年。作者はブラジルのマシャード・ジ・アシス(1839-1908)。西洋の同時代の著名な作家といえば、ディケンズ(1812-1870)、ドストエフスキー(1821-1881)、レフ・トルストイ(1823-1910)、エミール・ゾラ(1840-1902)、マーク・トウェイン(1835-1910)など錚々たる面々で、まさに文学界のオールスター。マシャード・ジ・アシスはこれらの作家と同列に並べて語られるだけの価値がある。

文学に興味のない人でも聞いたことのある名前ばかり。これを見てもらえばわかるとおり、19世紀は小説の最盛期だった。バルザックが19世紀初頭に確立した小説芸術が、半世紀と経たぬうちに全盛を迎える。19世紀は文学の中心が詩から小説へと、決定的に移り変わった時代だ。

この時代に「物語」の枠組みも作られたといってよい。それと同時に、大衆文学と呼ばれるジャンルも確立した。何度も繰り返され、矮小化されたプロットが、巷に氾濫することになる。流行ればそれを疎ましく思う人もいる。多くの場合それは、自分たちが苦労して作り出した枠組みを流用され、悪用された作家たちだ。彼らはより、新奇で珍しい枠組みを創り出そうと辛苦したあげく、大衆から離れてしまうことになる――これは20世紀文学の話。

そんな風に時代の流れを捉えてみれば、この小説、作家もまた同時代に生きていた作家だといえる。違いはといえば、社会の違いだ。産業革命後のヨーロッパと、奴隷制の影響が未だ色濃く残るブラジル。社会の違いは作家の資質の違い以上のものを、作品にもたらしている。

解説によると、ブラジルの文学百選を募ると、この作品が必ず上位に入るそうだ。世界文学においても、上位は難しいかもしれないが、中位は狙えるだろう。少なくともベスト100には入れてあげたい。

ここまで全く作品の内容に触れていないのでちょっとだけ。最初にも書いたように、この小説は「反・物語」だ。亡くなったブラス・クーバスが自らの人生を振り返るのだが、そこには奇想天外な冒険短も、出世の階段を駆け上がり、転落する人生も、ない。主人公はただ、知人の妻と不倫し、政界に出馬してさしたる功績もなく引退し、結婚しようとして失敗し、先祖から受け継いだ財産を蕩尽というほどもなく、ほどほどに使って、死に至る。面白いことはなにも起こらない。平凡な人間の平均よりも事件性に乏しいとさえ、いえる。だがそんなしょうもない一生を、500p以上にわたって書きつづけ、それで読者を飽きさせない、というのはやはり、才能のなせる業だろう。

作中より、好きな表現を引用してみよう。

…人間は考える葦だなんて、パスカルに言わせておけばいい。違う。人間は考える正誤表、そう、そうなのだ。人生の各局面が一つの版で、それはその前の版を改定する。そして、それもいずれは修正され、ついに最終版ができあがるが、それも編集者が無視にただでくれてやることになる。(p.139)

ここで作者は、人生を一冊の本にたとえている。これはこの小説全体を貫いているテーマであり、ブラス・クーバスは自らの息切れを文体に反映させている。まさしく、「文は人なり」――私も、こんなだらだらした文章を書いて、人格を疑われるようなことは止めにしよう…。

Au revoir et à bientôt !


2014年4月10日木曜日

プロ野球顧客満足度調査 2014

オリックス・バファローズの8連勝をかけた試合を見てきました。結果は3-6 で敗戦。プロ野球は年間144試合。いつかは負けるものだから、そう落ち込むこともないでしょう。まぁ、一言言わせてもらうなら――岸田、投球テンポ悪すぎぃ!

明けて今日、面白いニュースをネットで見つけたので紹介を。

慶大理工学部の鈴木秀男教授が今季開幕に合わせて、「プロ野球のサービスに関する満足度調査」なるものを発表した。なんでもこの調査、2009年から毎年行われているらしい。

当然のようにオリックスは最下位を獲得。総合満足度からチーム成績、チーム・選手、球場、ファンサービス・地域貢献、ユニホーム・ロゴ、応援ロイヤルティー、観戦ロイヤルティーと計7項目あり、いずれの値においても、オリックスは下位を低迷した。もちろん、毎年10~12位を死守し続けている。

「顧客がなにを求めているか」を知るのはどんな業界でも大切なことであり、この調査も有用だと思う。個人的には「経験価値」なる概念が非常に面白く、ためになった。

ただ、この調査に関して言わせてもらうなら、結局のところ「強いチームが高い数値を出す」という、当たり前の結論に行き着いてしまっているように思う。だって、パ・リーグは公式ホームページを全チームで統一してるのに、オリックスの満足度がほかに比べて低いってどうよ?

もちろん、強いだけでは駄目なようだ。巨人はセ・リーグを連覇したが、それでも満足度は5位にとどまった。ここには「毎年日本一になってほしい」「人気すぎてチケットが出に入らない」といった、強くて人気があるが故の不満も散見される。あるいは、この項目でいえば「応援ロイヤルティー、観戦ロイヤルティー」といった項目を高めることで、たとえ順位が低くても、満足しやすい環境づくりができるようだ(広島など)。

やはり満足度を向上させる最大の要因は、勝利だ。かつて落合元監督が語ったように、「勝つことが最大のファンサービス」といえる。

というわけで今のところ好調なオリックスも、今後も勝ち続けることで、ファンの数が増えていくのではないだろうか。もっとも、7連勝中にもかかわらず、昨日の観客数は12653人に過ぎなかったのだけど。

ちなみに、上記の調査でオリックスが1位を獲得した項目は、「チケットの手に入りやすさ」でした。

Au revoir et a bientot !

2014年4月8日火曜日

追悼 ジャック・ル・ゴフ

ジャック・ル・ゴフはみずからが中世を発見した日を覚えている。

1936年、フランスの南東部、地中海に面する軍港の町トゥーロンに住む十二歳の少年は、イギリス中世を舞台にした、ウォルター・スコットの歴史小説『アイヴァンホー』を読むことで、中世と出会ったのだった。

1936年は結集した反ファシズム勢力がフランスで選挙に圧勝し、人民戦線内閣が誕生した年。ル・ゴフも、『アイヴァンホー』の描くノルマン人のユダヤ人に対する仕打ち、とくに美しいヒロイン、レベッカの苦難を読むとただちに、当時のユダヤ人排斥と人種差別に反対する運動に加わろうと決心したようだ。それは母親をひどく心配させたが。

1924年にトゥーロンで生まれたル・ゴフはその後、パリの高等師範学校に進学、ヨーロッパ各地の大学で学ぶ。その後はアナール学派第三世代のリーダーとして、フェルナン・ブローデルの後を継ぐことになる。2014年4月1日、90歳でその人生の幕を閉じた。

アナール学派とはなにか。相変わらずWikipedia に頼らせてもらうと、

旧来の歴史学が、戦争などの政治的事件を中心とする「事件史」や、ナポレオンのような高名な人物を軸とする「大人物史」の歴史叙述に傾きやすかったことを批判し、見過ごされていた民衆の生活文化や、社会全体の「集合記憶」に目を向けるべきことを訴えた。この目的を達成するために専門分野間の交流が推進され、とくに経済学・統計学・人類学・言語学などの知見をさかんに取り入れた。民衆の生活に注目する「社会史」的視点に加えて、そうした学際性の強さもアナール派の特徴とみなされている

機関紙『アナール』の創刊が1929年であることを考えると、ずいぶんと長い歴史を持つ学派ということになる。アナール派で特に有名なのが、フェルナン・ブローデルの『地中海』だろうが、不幸にして私は未読のため、語ることはできない。

「大人物」や「事件」を中心にした歴史記述でなく、「民衆」に視点を当て、「集合記憶」を呼び覚ます手法は、ル・ゴフの著作にも現れている。それはほぼ同じ時代を生きた、ドイツ中世史家の阿部謹也氏にも同様の感覚が見受けられる。

ル・ゴフ氏の著作で読んだことがあるのは、『中世の高利貸』と『子どもたちに語るヨーロッパ史』だけだが、歴史学の門外漢である私にも刺激的な作品だった。一般の人々にも十分訴えかけるだけの内容を持つ著作であり、生き方の再考を迫るものだと思う。

本と出合い、人と出会う。ル・ゴフ氏にとっての『アイヴァンホー』のように人の生き方を変える力が、彼の著作物にもある。ご冥福をお祈り申し上げる。

Je prie pour l'âme de Jacques Le Goff...

参考書籍:子どもたちに語るヨーロッパ史 ちくま学芸文庫